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北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第19回


第9峰『空也十番勝負』


どうにも止まらない! 執筆欲と読書欲の共鳴で新山が隆起


10代の若武者を主役に据えた、元気ハツラツの磐音続編


年齢を意識し、〝十番”に限定。コンパクトな物語を志すも……


 リアルタイムで読んだわけではないので、『居眠り磐音 江戸双紙』が全51巻で終わったときの読者の反応は知らないが、新刊が出るたびに読み継ぎ、足掛け15年間も同作品を追いかけた読者の胸中は達成感に満たされただろうと想像できる。

 人気があるから長編シリーズになる。その一方で、通常は中盤以降は最初から追いかけるのが困難になるため新規読者がつきにくくなる。そこを乗り越え、新しいファンを開拓しながら全51巻の高みへ。たくさんのシリーズを書いてきた佐伯泰英にとっても、『密命』で果たせなかったハッピーエンドを成し遂げ、最長かつ最大のヒット作を無事に終わらせたことには特別な思いがあったに違いない。

 それなのに、ああそれなのに……。どうにも止まらない佐伯泰英は、磐音が終わった1年後、磐音の息子である空也を主人公に据えた新シリーズ『空也十番勝負』をスタートさせるのだ。

 空白期間の短さから、『居眠り磐音 江戸双紙』を書き終える前から書き継ぐ腹が決まっていたことは容易に想像がつく。最終51巻は、大仕事を達成した磐音に空也が武者修行に出ることを願い出る場面で終わっているが、「まだまだ書くぞ」という作者の続編執筆宣言でもあったとは!

 主人公が倅に代わって物語が継続されると聞き、磐音ファンは喜んだと思う。年間3冊以上も刊行されていた〝日常の一部”がなくなったさびしさを吹き飛ばす明るいニュースである。

 しかも、十番勝負だから全10巻だと思い込んでいたら、1番勝負の『空也十番勝負 声なき蝉』が上下2巻同時刊行ときた。ようやく磐音山を登り切ったら、その向こうに真っ赤な炎を噴く新山がむくむくと隆起していたのだ。元気すぎると言いたくもなるが、これでも佐伯泰英は自重しているらしい。

〈もはや「居眠り磐音 江戸双紙」のような長大な物語にはなり得まい。

 一つにはこちらの年齢だ。七十代半ばに差しかかり、十数年前の体力はない。もう一つには活字離れ、あるいは出版不況で出版ビジネスの見通しが立たないゆえだ。

 だが、どんな状況下でも小説家は小説を書くしか能はない。〉(『空也十番勝負(一) 声なき蝉(下)』あとがきより)

 しかし、なぜ武者修行なのか。大ヒットしたシリーズの続編が読者から熱望され、作者がそれに応えようとしたのはわかるとしても、主人公の息子が武者修行に旅立つ展開は、すでに『密命』で執筆済みだ。親が著名な剣術家であることや、天才的な素質を持つエリート剣士であるなど共通点も多い。

『密命』での武者修行は、終盤になるにつれて暗くなっていく物語を必死で励ますような明るい内容が多く、読者の救いにもなっていた。修行がメインになっている巻もあり、分量的にも不足はないと思われる。

 何が足りなかったのだろう。武者修行に絞り込んだシリーズを興してまで、佐伯泰英は何を描こうとするのか……。

 先に私の考えを述べておく。『密命』と『空也十番勝負』の違いは修行の純度にあるのだと思う。

『密命』の金杉清之助は、将軍が主催した剣術大試合で2位となったあと修行の旅に出て、諸国を回りながら霜夜炎返しという秘剣を編み出す。第2回剣術大試合の開催が決まると、後半はそこに照準を合わせて仕上げに入っていく。サービス精神も旺盛で、行く先々で事件に巻き込まれたり刺客に狙われたりと、エピソードには事欠かない。

 とはいえ、作者としては物語全体も動かしていかねばならず、修行ばかりに光を当てることはできない。そのせいか、清之助は旅先でこれといったライバルに出会うことができなかった。第1回大試合の勝者はすでにこの世を去っていて、普通に行けば優勝は確実なのだ。その大会も、父の惣三郎の不可解な行動によって優勝のインパクトが薄まってしまい、作者としては不完全燃焼なところがあったのかもしれない。

『空也十番勝負』を読むと、『密命』でできなかったことがすべてクリアされている。

 旅立ちのとき、空也は16歳、父の磐音は50歳。若武者は発展途上で、父はまだ現役バリバリだから「父のような剣士になりたい」という思いにリアリティがある。強くなるため、自分の型を身につけるために努力を惜しまず、人間的にも成長していく。

 闘う相手もレベルが高く、刺客もいれば異国の達人もいて、空也をライバルと見なす好敵手まで現れ、手に汗を握らせてくれる。剣術大試合のようなゴールがなくても、10番勝負という縛りが効いているため、最終巻に待っているであろうクライマックスに向かって、読者も盛り上がっていけるのだ。

 剣術ばかりではなく青春物らしい恋愛小説の趣もあるし、磐音やおこん、奈緒が、ここでは脇に回って存在感を発揮。一気に世代交代を果たすことで、『居眠り磐音 江戸双紙』というブランドの鮮度を保っている。

 作者は前出の「あとがき」でそのことにも触れていた。

〈新作を書くつもりで書いた。だが、この小説を「居眠り磐音 江戸双紙」の後編と受け取るか、新作と受け取るかは読者諸氏の自由だ〉

 つまり、本作は続編でありながら独立したシリーズとしても読める作品なのだ。

『居眠り磐音 江戸双紙』での空也は天才剣術少年の片鱗を見せてはいたものの、あくまで家族の一員として描かれていたのでイメージが固まっていない。作者はそれを利用し、読者が先入観なしで修行の旅を追いかけられるようにしたのだ。その結果、さまざまなしがらみから空也を解放することに成功。純度100%の青春剣術小説が生まれることになった。

 なんといっても作者自身に「やる以上は読者を失望させてたまるか」との強い意志がある。いや、そんなことはどこにも書かれていないけれど、持てる技術を総動員するばかりか、さる事情で口をきかない期間が長い空也の胸の内を読者に漏らすことで(相手には当然聞こえない)、主人公の息遣いまで感じられるようにした剛腕ぶりに、大ベテランのなりふり構わぬ姿勢が垣間見える。

 佐伯泰英、70代にしてまだまだパワフルなり! ということで、51巻もある〝前編”を読み通すのはしんどいとおっしゃる佐伯ビギナーは、本作から読み始めても楽しめるはずだから安心してください。

1番勝負の遺恨が修行の行方を左右する


 本作は、江戸にいる磐音が薩摩藩島津家の用人から、空也の死を告げられる思わせぶりな序章から始まる。佐伯御大、新しいパターンで攻めてきたなと嬉しくなる書き出しだ。もちろん読者をだます意図はなく、修行が甘いものではないこと、トラブルに巻き込まれたらしいことを匂わせているにすぎない。

 それが済んだら、さっと切り替えて第1章へ。場面は豊後関前藩を出発した空也が最初の修行先に選んだ薩摩に向かう路上へと転換する。映画なら、ここでタイトルがバーンと映されるところだろう。

 だが、どうも違和感がある。主語が「空也」ではなく「若者」となっているのだ。

「若者」は口をきかず、行き交う人とのやり取りは身振り手振り。薩摩藩では外部の者が許可なく国境を越えて侵入することを固く禁じている上、方言が極めてわかりにくいため、なりすますのは不可能と判断し、口をきかない「行」を己に課していることが明かされる。

 あえて空也ではなく名もなき「若者」ということにして話を進めようとする演出だ。あざとくもあるが、作者の気持ちが乗り移っているせいか嫌味がない。

 会話もできないのでは話がわかりにくいのではと心配する向きもあるだろうが、そこも抜かりはない。わかりにくい場面になると、空也が何を考えているか理解できるように心の声を聞かせてくれるからだ。

〈しばし沈思していた若者は、

(狼を殺すために毒を塗した矢で鹿を射たのではない。毒を飲ませた鹿をさも猟師が矢で射殺したように見せかけて、己に食させて殺そうとしたのではないか)

 と考えついた〉(『空也十番勝負(一)声なき蝉(上)』第1章より)

 序盤では、剣術のレベルが高く、東郷示現流(以下、示現流と記す)という独特のスタイルを確立している薩摩でどうしても修行したい空也が、その地へ潜入しようと必死になる。並の奮闘ではない。国境で侵入者を見張る外城衆徒に襲われて死線をさまようのだ。いきなり命がけなのである。

 厳しい修行を望む空也にとって、薩摩剣法はぜひともクリアしなければならないものらしい。「なぜそこまでして」と思わないでもないが、作者は国境で起こるエピソードを積み重ねて、だんだん読者をその気にさせてしまう。

 エンタメ作家を自認するだけに、作者の文章は軽くてあっさりが持ち味なのだが、薩摩領地への潜入に関してはこってりしている。『空也十番勝負』が上手くいくかどうかは、薩摩が鉄壁の守備を誇る剣術大国で、空也がハードな修行をするに値する土地だと読者に思ってもらえるかどうかにかかっている。そのため、現代に生きる我々にとっての県境(国境)と江戸時代のそれはまったく違うことを、早い段階で読者に伝える必要があった。

 執筆に際し、佐伯泰英は日向(宮崎県)、肥後(熊本県)、薩摩(鹿児島県)の国境で入念な取材を敢行したという。その甲斐あって、リアリティのある地形や自然の描写がフィクションを分厚く支え、決して侵入を許そうとしない薩摩と、どうにかして突破しようとする「若者」の駆け引きを濃厚なものにしている。

 何事も最初がカンジンだからそれはいい。問題があるとすれば国境の守りが堅すぎることだろう。読んでも読んでも薩摩に入れないのである。「ついに入った」と確信できるのは下巻に入ってからだ。

 焦らした分をカバーすべく、ここから物語は急展開していく。強い味方が現れ、待望の剣術修行も叶い、示現流の会得に力を注ぐ空也。剣術家として得るところも大きく、好敵手らしき若者も登場するなどいつもの調子になってくる。

 これまでの佐伯時代小説なら、薩摩に腰を落ち着けるところだが、10番勝負でそれをやったら話がさっぱり進まない。そもそも空也は薩摩にとって〝異物”なので、ごたごたに巻き込まれ、やむなく薩摩を脱出する羽目になる。そして、ここで1番目の勝負。脱出できたと思ったところで待っていた示現流最上位の剣士との尋常勝負で勝利を収めたはいいが、その一族に追われる身となってしまう。 

 復讐を誓う一族からつけ狙われるために、修行の行先があちこち変わり、そこで出会う強者と次の勝負を行っていくスタイルにしたおかげで、読者は先の展開が読めず、次の巻をむさぼり読むことになるのだ。

 そして、ここで佐伯本らしい仕掛けが入る。自分自身の力でピンチを切り抜けていくのも修行の一環といえばそうだが、斬り合いばかりでは殺伐とする。修行はゲームじゃない、人間的な成長も描かれなければ……、ということで薩摩編で空也の恩人となった薩摩藩の重臣・渋谷重兼とその孫である眉月をキーマンに抜擢するのだ。

 渋谷重兼は自らの政治的ルートを使って空也の動向を磐音に伝える役を担うのだが、なんといっても花形は眉月。口のきけない若者に好意を抱き、シリーズを通して空也との愛を深める本作のヒロインである。眉月は純情で意志が強く、ときには予測不能な行動を取るお嬢さん。めったに会えない二人が、手紙のやり取りで互いの気持ちを確かめあっていく純愛ぶりは中高年読者をキュンとさせてくれる。

 巻が進んでもテンションは落ちることなく、登場人物を増やしながら、空也に試練を与え続ける。登場人物がちょっとやそっとじゃ舞台を去らないので交通整理が大変だが、そこはやりくり上手な作者のこと、随所に見せ場を用意して読者を楽しませてくれる。

 読んでいて、佐伯泰英は自身の代表作だからこそ、「続編など書かなければよかったのに」とは絶対に言われたくないのだと思った。

佐伯泰英は大ピンチをいかに乗り切ったのか


佐伯時代小説の敵役は9割が薩摩勢⁉


 しかしながら、物語とはべつのところで、私は心配になってしまったのだ。薩摩剣士が空也にかなわないばかりか悪役扱いされて、鹿児島県の読者が気を悪くしないか、と。

 というのも、佐伯時代小説で薩摩がこのような目に遭うのは一度や二度ではないからだ。主要作品の多くで薩摩藩は敵方。それも、知力を駆使して陰謀を企てるのではなく、メンツをつぶされた怒りや仲間を斬られた恨みが発火点になる。主人公たちに何度もしつこく襲いかかっては返り討ちに遭う役回りを、佐伯ファンならよく知っているだろう。

 そうしたことから佐伯泰英は根っからの薩摩嫌いと思う人がいたら、それは見当はずれだ。主人公を輝かせ読者を満足させる、以下の条件を備えた敵方として選ばれているのである。

・幕府も恐れる実力


 天下を統一した徳川家康がもっとも恐れた外様大名は島津家が藩主を務める薩摩藩だったとされる。俗に薩摩77万石といわれるほどの表高、琉球王国に出兵して服属させた軍事力や海運力、11代将軍の徳川家斉に茂姫を嫁がせて外様大名から唯一の正室としたり、13代将軍の徳川家定にも篤姫を嫁がせて正継室とした政治力など、諸大名の中でもトップクラスの存在感を示していた。

 また、薩摩藩は武士の比率が高く、戦闘能力も高い。それだけに、幕府側に立つことの多い主人公と利害の対立する相手として、読者が納得できるのである。

・独創的な剣術


 薩摩藩に伝わる示現流は、江戸後期になると藩外の者に伝授することが禁じられたほど大事にされた剣術だった。藩内の道場で稽古したとはいえ、藩外者の空也が示現流を身につけることは、事情を知らない藩士から見れば掟破りそのものなのだ。

 その教えの要は先手必勝であり、撃ち下ろしの一撃で敵を片付け、太刀を外されたときは即、連続攻撃に移って攻め切る。これができるようになるためには猛烈な反復練習を積まねばならず、上級者は当然人並外れて強い。その相手を倒すから、主人公がより輝けるのである。敗けてなお強しと思わせてくれる薩摩剣士。潔い敗けっぷりは読んでいて気持ちがいいほどなのだ。

・高いプライドと結束


 佐伯時代小説に馴染んだ人なら、この敵方にまっすぐな気性でプライドが高く、仲間のため、藩のために行動する薩摩隼人のイメージを抱いている。それぞれの剣士が強いだけでなく、藩の総意として主人公と対立できる結束力は、忍びや浪人の力に頼りがちな他の藩では持ち得ないところだ。映画でも人気のある悪役俳優がいるように、薩摩藩が乗り出してくると「待ってました!」と私は声を掛けたくなってしまう。

 薩摩藩が敵方にされやすいのは、物語に緊張感や迫力を与え、主人公の強さを際立たせる目的であることがわかってもらえただろうか。鹿児島の皆さんは、「また悪役か」ではなく「主人公に対抗できるのは薩摩藩しかない」と胸を張ってほしい。

※ 次回は、9/21(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)