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北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第10回

第4峰『酔いどれ小籐次』其の弐

庶民派ヒーロー・小籐次の活躍は、作者から読者へのエールだ

包丁研ぎと野菜売りのコンビで商売繁盛

 もろもろの準備が整いスタートする小籐次の新たな活躍。まずは生活の糧を得るところからだが、その前に充実の脇役陣を紹介しておこう。
 
 佐伯時代劇では主人公を支援する地元有力者が欠かせない。彼らは生活の面倒を見てくれたり、仕事を与えてくれたり、ポンと現金を与えてくれることもある太っ腹な商人だ。
 
『酔いどれ小籐次』では第1巻で御鑓を奪い取るため旅に出た小籐次が、トラブルに巻き込まれた紙問屋「久慈屋」一行を救って立ち去る場面があり、小籐次にほれ込んだ主が、助けてもらったお礼に持ち物件である長屋の1室を小籐次に世話してくれる。また、移動手段に困るだろうと小舟も提供する。
 
 長屋の住人たちは、元気な女衆と、うだつの上がらない職人の亭主というのが定番。ここに差配(管理人)の新兵衛一家(しっかり者の娘や孫がいる)を加えることで、長屋全体が大家族のように助け合って暮らす様子を活写していく。
 
 この大家族は善人ばかり。金持ちも権力者もおらず、文字通りの庶民生活を営んでいる。彼らは小籐次を狙う刺客が現れることすら苦にしないどころか、長屋の住人に武術の達人がいることを歓迎する能天気な人たち。だから、長屋の場面はいつも登場人物たちがはしゃいでいるような明るさがある。
 
 ほかにも岡っ引きの秀次、困ったとき力を貸してくれる密偵の新八とおしんなど気になる脇役がいるが、なかでもいい配役だと思ったのが、うづという野菜売り少女だ。
 
 糧を得るために小籐次が考えたのは、刀を研ぐ技術を生かした包丁研ぎの仕事だった。それまでの人生で商売をしたことがない小籐次は、小舟で客がいそうな場所を探すうち、小舟に野菜を積んで売りさばくうづと出会うのである。
 
 はるかに歳下でも商売では先輩にあたるうづの手ほどきを受けて、ぎこちなく仕事を開始した小籐次は、研ぎ師を必要とする飲食店や職人とつぎつぎに知り合い、仕事を頼まれるだけではなく、生活圏に知人を増やしていく。その過程で、読者は小籐次の目を通じて庶民たちの生き生きした会話に耳を傾け、彼らの生活感を感じることができるのだ。
 
 このあたりの描写は、これから始まる快進撃に向けて舞台を整える意味もあるのか、筆が乗って楽しそうである。刀とは異なる包丁の研ぎ方について研究し、うづの快活な営業活動から商売の基本を学ぼうとする小籐次には、「やせても枯れても自分は武士だ」というようなプライドがなく真剣そのものだ。
 
 うづが危うくなれば剣が唸り、4家から刺客が送られてくれば始末もするが、圧倒的に強い小籐次にとってはさほどの難事ではない。それよりも、商売をして適正な料金をもらい、生活を立てるほうが大切であり、1日も早くそうなりたいと考えている。
 
 そして、だんだんわかってくる。作者が描きたいのは武家社会の出世物語や荒っぽい武勇伝ではない。若くもなく、身よりも友人もない状態で世間に放り出されたオールドルーキーが、第2の人生に挑戦する話なのだ、と。
 
見る目が変わればすべてが変わり、いまや江戸の有名人

 地味におとなしく暮らしたい小籐次だったが、御鑓奪取に快哉を浴びせた周囲は放っておいてくれない。ヒーローなのに包丁研ぎをしていることや、冴えない風貌であることが親近感につながるのか、噂の人物として江戸じゅうに知られるようになる。
 
 藩を出て貧乏暮らしをしている本人にとっては終わった出来事なのに、周囲はそうは見ないのだ。箔がつくというのか、どこへ行っても一目置かれる小籐次は、知らないうちに有名人になってしまったのである。
 
 おもしろいのは、御鑓奪取に成功したため、酒飲み大会で1斗5升を飲み干し酔いつぶれたエピソードの価値まで上げてしまったこと。ついたあだ名が「酔いどれ様」だったりするのだ。もっとも、当人は優勝ではなく2位に甘んじたわけで自慢にならないと思っている。だいいち、貧乏すぎてめったに酒など飲めず、酔いどれるチャンスさえない。たまに〝ファン”のはからいで飲ませてもらうときもあって、周囲に見守られながらペロリと3升盃を飲み干す小籐次の所作には愛嬌が漂う。
 
 大活躍したのに貧乏、超人的なのに不細工、剣の達人なのに包丁研ぎ、酒豪なのにめったに飲めない。第2の人生スタート時、小籐次にはトホホな要素がたっぷりある。しかし、冷静に考えてみよう。人生の前半は不運だったかもしれないが、小籐次は人柄がよくて武術に長け、大酒飲みだがアル中でもなく、まじめにコツコツ働くことをいとわない。有名人になったことで有頂天になるどころか誰よりも驚いている、欲がなくて取柄の多い好人物なのだ。
 
 若いときは外見がいいことでちやほやされたりもするが、中年になればそうでもなくなる。「人は見た目が9割」と言ったりするが、中年以降になれば「外見より中身」という昔からの価値観がまだ生きている。『酔いどれ小籐次』とは、人生の前半では弱点とみられたことが、オセロの黒と白がひっくり返るように好転し、敗色濃厚だった人生をひっくり返していく物語なのだと私には思えた。
 
 小籐次は頑固な男であり、地道な暮らしを好んでいるから、仕事に慣れ、交友関係が広がっても態度が変わることはない。といって、静かな暮らしをされては書くことがなくなるが、安心してほしい。4家に恨まれ、周囲に頼られ、弱者の味方をする性格だから絶え間なく事件は発生。『鎌倉河岸捕物控』でもおなじみの水路を使ったシーンもひんぱんに出てきて、時間的なもたつきも感じさせない。
 
 全編にわたって、おだやかな日常(静)と事件勃発の非日常(動)の対比が鮮やかなのだが、本作では軸足が日常に置かれ、小籐次が普通の生活に幸せを見出しているのがよくわかる。欲張らず、腐らず、汗をかきかきまっすぐに。まるで「日々の暮らしこそが基本だよね」と作者が語りかけてくるようだ。
 
 さて、お膳立てが整ったところで、オヤジドリームのゴングが鳴る。小籐次の人気はうなぎのぼり、名声は水戸藩まで届き、悪化する藩の財政を立て直す手伝いを頼まれてしまう。聞いてないぞ、小籐次のどこにそんな才覚が眠っていたのかと思うわけだが、作者は待ってましたとばかりに潜在能力を開花させる。藩に在籍していたころに身につけた技術が、まんまと水戸藩に新産業をもたらすのだ。
 
 それは強引だろうと思う間もなく小籐次直伝の新製品は評判となり、量産体制に。デモンストレーションのために持ち込んだ吉原では人気の花魁が絶賛。新製品にアイデアと技術を授けた小籐次は大先生扱いされ、つい鼻の下を伸ばす。あり得ないことが現実になれば、酒がうまいのも当然か。
 
 相変わらず懐は寂しいが、それ以外は順風満帆。もっともいいのは人間関係で、接する人たちは善人揃いだ。既読の作品でもそうだったが、佐伯時代小説は善人と悪人の区別が明確。主人公のまわりの人たちは好人物やけなげな若者ばかりなので、安心して物語の本流と各エピソードに身を任せることができる。
 
 このように、トラブルにも動じず、絶好調を維持したまま突き進む小籐次なのだが、緊張感まで失われてしまっては興味をそぐ。そこで作者はヒネリを加えてきた。刺客との戦いで相手から「自分が負けたら我が子を代わりに育ててほしい」と条件を出され、倒した男の子ども、駿太郎を引き取って育てる決意をするのだ。
 
 未婚の男がいきなり人の親。運命がそうさせたと自分を納得させるが、心の中では「いずれは事情を知り、自分を敵とみなすかもしれない。でも、それならそれでいい」と腹をくくる。どう考えても先を見越した伏線に読めるため、読者は子育てに力を注ぐ小籐次を複雑な気持ちで見守ることになる。
 
メディアの力を活用し、情報戦を制す

 話は変わるが、ぜひとも触れておきたいのが〝読売”の存在だ。瓦版とも呼ばれ、江戸の出来事を刷りものにして販売していた、新聞や週刊誌の元祖のような媒体。おもしろおかしく読み聞かせて売ることからこの名になったと思われ、記者や販売者は読売屋と呼ばれていた。
 
 読売屋は事件記者みたいなもの。時代小説にはたびたび登場するが、作者はこの読売屋を、本シリーズで大々的に使ってきた。
 
 組織に属さない小籐次は、1対1の闘いには強くても、情報戦を仕掛けられると弱いのがウィークポイント。そこをカバーするため、読売というメディアの力を利用するのだ。長屋の隣人である勝五郎が読売屋の下請け版木職人であることから、発注者の通称・ほら蔵こと空蔵と知り合い、自分が関わった事件の顛末を掲載してスクープを連発していく。
 
 小籐次と勝五郎、空蔵は妙な三角関係だ。隣人で仲のいい勝五郎はいつもピーピーしていて、空蔵からの仕事を飯の種にしている。空蔵は人気者の小籐次の活躍を読売に書くと売れ行きがいいため、しょっちゅうネタを探しにやってくる。これ以上は有名になりたくない小籐次も、世論を動かす読売の波及力を知ってからは、敵への対抗手段としてこれを活用しようと、空蔵にネタを流したり事件の現場に同行させたりするようになっていく。3者の利害関係が一致するときは、売れ行きもすごいし、話題性もたっぷりで、事の詳細を伝えたい人に間接的に知らしめることができて便利なのだ。
 
 ただ、そうそう大きな事件が起きるわけではなく、それでも小籐次ネタを書きたい空蔵は、勝五郎の苦境を訴えて小籐次を口説こうと駆け引きする。このあたりの抜け目のなさは、ほかの登場人物にはないもので、やりとりが絶妙。巻が進むにつれて空蔵の役割が大きくなるのも頷ける楽しさだ。
 
 空蔵はやり手のビジネスマンだが、正義感をきっちり持っていて、あこぎなことをしないので憎めない。「金がない」が口癖のような勝五郎も気のいい隣人で、徹夜仕事になると張り切る職人根性を持っている。
 
 3者のチームワークが炸裂するのは第11巻。赤目小籐次が辻斬りをしているとの読売を、空蔵の商売敵が出したのだ。いったい誰が、なんの目的で小籐次を陥れようとしているのか。読売の影響力と怖さを知り尽くす空蔵は一読して戦慄。長屋に奉行所の同心が調べに来る事態にまでなってしまう。
 
「そんなはずはねえ」と独自調査に乗り出す空蔵。なんとしてでも真相を突き止めようと動く岡っぴきの秀次。ふたりは知恵を絞り、偽の読売を書いて犯人をおびき出そうと画策する。ふたりを信頼し、指示された場所へ向かう小籐次。犯人は空蔵の筆に踊らされるのか。それとも見破られるのか。メディアの力を善悪の両方が駆使した情報戦は現代にも通じるところがあって興味深い。
 
 作者にとっても、この事件は印象的だったのか、それ以後は事件のあらましや顛末を空蔵の口上で知らせる機会が増えていく。チョイ役で終わったかもしれない読売屋が準レギュラー化するあたり、ラフな設計図を元に書き進められる長編シリーズは生き物だなとつくづく思う。
 
純情オヤジは、憧れの人を遠くから眺めるだけ

 縁談に恵まれなかったのか、結婚どころではなかったのか、小籐次は独身。「自分のように年寄りで貧乏な侍が結婚なんて」とあきらめ気分である。しかし、好きな人がいないわけではない。はるか昔にほんの一瞬だけ見かけた透き通るような白い肌の娘、旗本水野監物家のおりょうという奥女中がその人だ。
 
 言葉すら交わしたことのない人に淡い恋心を抱きながら、十数年間も過ごしてきたのである。いまだに、水野監物の下屋敷を通りかかると、(この塀の中におりょう様がいる)と胸が高鳴るのだ。おりょうは名門の娘であり、厩番の小籐次とは家柄が違うので、年に1度か2度、姿を見かけるだけで満足している。
 
 そこに転機がきた。ある日、水野監物家のそばを歩いているとおりょうの乗った駕籠が浪人風の男たちに因縁をつけられるのだ。すかさず暴漢どもを追い払い、想い人の危機を救った小籐次はすぐに立ち去ろうとするが、おりょうは赤目小籐次だと気づく。すでに、江戸では武士の鑑として有名になっていたからだ。
 
 ここでの会話が小籐次の純情ぶりを良く表している。おりょうの名を口にした理由を問われた小籐次は、水野家に彼女が奉公し始めた日に偶然見かけたことを告白する。15年前の16歳だった自分を赤目小籐次が知っていたことに驚くおりょう。このときの会話が純情男そのものだ。
 
〈「あいや、おりょう様、と申してそれがし、よからぬ考えはござらぬ」
 
  小籐次は口ごもりながらも言い訳した。
 
 「さようなことは少しも考えておりませぬ」〉(第2巻23ページ)
 
 これがきっかけとなって、ふたりの間に交流が芽生える。長年、恋心を温めてきたかいがあったというものだ。おりょうが奥女中を退職し、歌人として活動を開始するときも、おりょう様に何かあってはならないと気を配る小籐次の行動は喜びに満ちている。
 
 生活するのにカツカツながら、お得意さんもついて仕事が軌道に乗ってきた。知名度がついたおかげでやっかい事も起きる代わりに、人に頼られ信頼されてやりがいを知った。相談相手や気心の知れた知人も増えている。水戸藩という大組織でも活躍の場を与えられる存在になれた。さらには、口をきくことも叶わないと思っていたおりょうと親しくなることができた。
 
 言うことなしである。小籐次は分をわきまえた男。この上、おりょうと恋人や夫婦になろうという野望は抱かないだろう。恋心を秘めたまま、日々を充実させ、藩主の通嘉に何かあれば命を懸ける覚悟で馳せ参ずる。いいぞ小籐次、五十路ヒーローの生きる道を突っ走ってくれ。
 
 私の願いを小籐次は裏切らなかった。誠実に、実直に、必要あらば実力行使もいとわず、日々の糧を稼ぎ、人を助け、降りかかる火の粉を払う。たとえばリタイア後、第2の人生の目標を見出せないでいる読者の中には、シンプルだが力強い小籐次の生き方に刺激を受ける人もいそうだ。
 
 中盤以降、本作はエピソードがてんこ盛りの人情小説の色合いを強める。対決シーンはあっても血なまぐさくなく、ひょうひょうとした小籐次らしさを演出するためか、とぼけた飛び道具を使ってコミカルな味つけをされるのだ。必然性がなければ刀の峰を返して悪人を退治し、むやみに殺生しないところも一貫している。
 
 英雄扱いされようと酔いどれ様と呼ばれようと、藩を離れてもなお通嘉を主と決め、忠誠を尽くす考えは一切ブレることがない。そもそも小籐次はまったく変わっていないのだ。
 
 金など食べて少し酒が飲める分だけあればいい。部屋には鍋と寝具があれば満足できる。ひょんなことから子どもを引き取り、親の気持ちを味わうとともに生きがいもできた。気力、体力、酒量もいまだ衰え知らず。そして、心の中には理想の女性であるおりょうがいる。それだけなのに、周囲の見る目が変わったことで幸せが向こうから近づいてくる。
 
 作者は、金銭欲、色欲、出世欲、嫉妬やひがみといったつまらない事から解放され、自由な生き方を追求する小籐次を通じて、俗っぽい考えからなかなか逃れられない我々(とくにオヤジ世代)にエールを送っているのではないか。本作は佐伯泰英流の〝幸福論”であるとするのは私の考えすぎだろうか。
 
 そんなことを考え、ユーモラスな会話に声を出して笑ってはコーヒーなど飲んで巻を読み継ぐ私に、信じられない展開が待っていた。さきほど小籐次は何も変わらず、周囲の見る目が変わったと書いたが、そのひとりに盲点となる人がいたのだ。
 
 おりょうが小籐次に惚れ、歳の差も、子連れであるのもいとわず迫ってきたのである。
 
 まさかの逆告白に、淡い思いを墓まで持っていくつもりだった小籐次は、喜ぶどころか逃げ腰。私も小籐次と同じで少々引いた。マドンナは憧れのままで終わるのが相場なのに、定石を打ち破るとは何事か……。
 
 でも、夢を淡いままで終わらせないからこそファンタジーとも言える。おりょうは人間の本質を見抜く目を持っていて、小籐次の価値を正しく判断したのだ。最初は動揺を隠せないオヤジ諸氏も、毅然としたおりょうの態度に、「さすがはおりょうさん、わかってるね」と、喜びがこみあげてくると思う。
 
 おりょうと結ばれることによって家族小説の色も加わり、物語はいよいよ多彩になっていく。4家の家臣たちや通嘉の出番が少なくなってきたが、このままでいるとは思えず、水戸藩との関わりも道半ばの感がある。
 
 いったいこの話、どこまで膨らむのか、先がまったく読めないのだ。残りが数巻となっても、小籐次の日常が中心であることに変わりはなく、最後の山場となるべき事件の種が育ってこない。
 
 最終巻になっても大団円に向かう気配がないことがわかり、鈍い私もようやく悟った。
 
 佐伯泰英、全19巻で小籐次シリーズを終わらせる気になれなかったんだ!
 
 読者を現実の世界に放り出す前に、語っておきたい小籐次の活躍がもっとある。エピソードはまとまっていても、物語全体の締めくくりとしては物足りないラストシーンは、続編となる『新・酔いどれ小籐次』への誘い水なのである。
 
 ならば誘いに乗るしかない。私は知りたいのだ。結婚はしたものの通い婚状態にあるおりょうとの未来を、出生の真実を知らされた駿太郎の反応を、もう1騒動ありそうな武家社会との関わりを……。

※ 次回は、7/20(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)