
鈴峯紅也「警視庁監察官Q ZERO」第14回
十四
翌日も、ジュンナは通常通りに出勤してきた。ただ、伊橋敬一とキミカは、ともにこの日も出勤しなかった。
どうも、前夜の一件から観月は二人の動向が気になってしまった。
田沢副店長に確認したが、どちらも連絡が取れないという。
「ミズキちゃん。何か知ってるの」
そう聞かれたが、この段階では取り敢えず空っ惚けた。
知っているかと聞かれれば知らなくはないが、トラブルとしてはどこにでもあり、いつでもある種類のものに思われた。観月が入会前の、〈Jファン俱楽部〉員との軋轢と重なったほどだ。
色恋とプライドが懸かると、年齢も性別も問わず、怒りに任せて執念深くなる人たちはいるものだ。
裕樹に依頼されていたこととの関連は、さてどうだろう。あまり関係は無いように思われた。
だから特に、田沢に告げはしなかった。観月自身、あまり深くこのトラブルを考えるわけではない。
喉に小骨が刺さった程度だ。
甘味を食せば、取れるほどの。
閉店になった後、そんなこんなを理由に、スイーツの残りを食べる。
この日のスイーツは生麩饅頭のバリエーションで、柚子餡包みだった。
柚子の皮を練り込んだ生麩も爽やかな香りのする餡も最高だったが、残存は三つしかなかった。しかも小振りだ。
大いに物足りないが、気分は悪くなかった。むしろ上々だったろう。
美味しい和菓子は、なんと言っても観月の好物という域を超えて、脳に最適な栄養補給食だ。
他の誰よりも日々、脳の記憶野に重労働を課す関係上、他人には過多と思われる糖分くらいが実はちょうどいい。脳自体が大いに喜ぶ。〈脳疲労〉が癒される。
帰りを急ぐキャストを横目で見ながら、生麩饅頭三つ分だけ遅れて退店する。
深夜と言っていい時間帯は、さすがに並木通りも人通りが目に見えて少なくなっていた。
観月の場合、閉店まで店にいると終電には間に合わない。
ただ、アルバイトはアルバイトだが他のキャストと違って、目的は一般の〈勤務〉ではなく〈調査〉だ。
――まあ、暫くの間だからね。
ということで、裕樹が一台のタクシーを短期契約してくれた。
当然、他のキャストには有り得ない特例なので、店の近くでの待ち合わせはしないことになっている。
これはタクシーの使用に当たり、くれぐれもと念を押された決め事だった。
(さぁて。早く帰ってなんか食べよ。駅前のコンビニに寄ろうかな)
並木通りから八丁目手前の花椿通りに向かい、左に折れ、銀座七丁目の交差点を目指せば、そう遠くない場所にタクシーのハザードランプが見える。
それが決められた、専用タクシーの乗車場所だった。
「ん?」
いつもより、一方通行を銀座七丁目の交差点方面に向かう車の流れが澱んでいた。
工事か事故か。いずれにしろ何かのアクシデントで混んでいるのだろう。
そんなことを考えながら進むと、原因はすぐにわかった。
いつもなら観月の乗るタクシーくらいしか停車していないはずの辺りに、この夜は他に何台ものオートバイのテールランプが光っていた。
その持ち主らが、観月が乗るいつものタクシーの周りに集まっていた。
険悪にして剣吞な雰囲気は、離れていても明らかだった。
どの顔も大いに〈未熟〉な、同じ歳回りと思しき若い男たちだった。
全員が派手なスカジャンを着て、ガムを嚙んでいるようだ。
世にいう、半グレという類の連中か。
タクシーの運転席から外に乗務員が出ていたが、顔が青ざめていた。
いつもは明るく饒舌で、乗車中の観月を飽きさせないよう努めてくれたこなれた運転手だが、笑顔も陽気さも今はまったく見られなかった。
その首元をワイシャツごと、サイドワックスのリーゼント男が締め上げていた。たくし上げたスカジャンから突き出した腕が、まるで丸太のようだった。
乗務員は離れた場所に観月の姿を認めると、これまで見せたことのないような引き攣った顔で、片手を上げた。
助けを求めているようにも、来るなと言っているようにも見えた。
その仕草に視線を動かし、観月に気付いたようで、サイドワックスのリーゼントが、下卑た笑いを観月に向けた。
乗務員を突き放し、サイドワックスがスカジャンの裾を撥ねるようにして観月に寄ってきた。
ゆっくりと――。
それも一つの、他人の恐怖心を煽ろうとするモーションだったろうか。
喧嘩慣れはしているのだろう。
連動するように、剣吞な気配全体が渦を巻くようにゆっくりと動いた。
いずれそれらが、観月を直撃するのは目に見えていた。
――仏滅には気を付けるさね。
耳内に声が蘇って聞こえた。
「ちょっとちょっと」
観月は独り言ち、頭を振った。
この日の午後、〈蝶天〉への出勤前に立ち寄った〈四海舗〉で、松子からそんな不吉な注意を貰ったものだ。
「言霊ってこと? でも仏滅は明日でさ。――あっ」
思い至った。
零時を回った以上、すでに今現在は仏滅だった。
「うわあ。マジですか」
マッシュボブの髪を掻きつつ溜息をつけば、
「なあ。あれかい。あんたがあのタクシーの客かよ」
サイドワックスが、観月の前で仁王立ちになった。
ワックスに含まれる、エタノール臭が観月の鼻腔を強く刺激した。
男が立ったのは、それくらい観月の近くだった。
「だったら何?」
臆することもなく、観月は聞いた。
「へえ。いい度胸じゃねえか。何って言われりゃぁよ」
男は背後に向け、顎先を大げさにしゃくって見せた。
「あの運ちゃんにな。大事なバイクを擦られちまってよ」
そう言った。明らかに威嚇を含んだ、どすの利いた声だった。
観月は顔をタクシーに向けた。
携帯を耳に当てていた乗務員がこちらを見ながら口元を歪ませ、首を激しく左右に振った。
それだけで全体は、馬鹿らしいほど簡単に理解出来た。
「ああ。そう。大変だったわね」
「けっ。大変だったわねじゃねえだろ。他人事みてぇによ。――なあ、どうしてくれんだよ」
「どうして? 私が? よくわからないんだけど」
「こんな迷惑なとこによ、あのタクシーを停めさせたのはあんただろ」
「私じゃないわよ」
「惚けんなよ。あんたじゃなきゃ誰だよ。まさか、あの運ちゃんが勝手にあそこであんたを待ってたってのかい?」
「そんなストーリーでもいいけど」
「んだって?」
「私が何を言ったって、納得なんかしないんでしょ」
「ああ?」
「こっちのことはいいから、そっちのストーリーを言ってくれる?」
そんな遣り取りの間に、剣吞な渦が観月を取り囲んだ。
総勢で六人だった。サイドワックスを入れて六人だ。
いや――。
気配と小さな光がタクシーより少し先の、離れた所に感じられた。反対側の歩道の、街路樹の陰だった。
気配は二つ、光は一つ。
伊橋敬一とキミカと、昨日は別の取り巻きが構えていたが、ハンディカムのライトで間違いないだろう。
(ふぅん。そういうことね)
並木通りを歩くうちから、なんとなく背後にも視線を感じていた。
取り囲む連中を見回しながら、何気なく視線をもっと遠くに投げた。
花柄のスカジャンを着た背の高い男と般若柄の太った男の間、観月が来た道を戻って車道を渡った所にあるビルのエントランスに、ジュンナの姿が見えた。
つまりはそういうことで、そういうことなのだろう。
仏滅だと思えば、すぐに理解された。
「ねえ」
ワンショルダーバッグをきつく締め直し、正面に向き直って観月はサイドワックスに声を掛けた。
どう見てもそいつがリーダー格だった。
未熟な、大して貫禄もないリーダーだったが。
「なんだ」
「伊橋の仲間? ま、どこの誰でも構わないんだけど」
リーダーの目が一発で揺れた。
笑えたなら間違いなく、吹き出す場面だったろう。
「す、すかしやがってっ。手前ぇ」
観月は右手をリーダーの前に出した。
出して拳を握った。
「なっ」
リーダーの動きが一瞬止まった。
虚を突いた動きだったろう。もちろん、そうするつもりの行動ではあった。
リーダーだけでなく、全体の剣吞な気配も掴み取り搦め捕る動作だ。
そのまま、観月は小さく呼気を吐いた。
スニーカーの足を少し開き、握った右拳を前に落とす。
関口流古柔術の口伝に曰く、形より入り、形を修めて形を離れる。
それで静中の動、動中の静を自得し表す、即妙体の完成だった。
観月の無敵の、完成でもある。
※毎週木曜日に最新回を掲載予定です。