見出し画像

コンビニ勤務記――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第19回

台湾出身の芥川賞作家・ことさんによる日本語との出会い、その魅力、習得の過程などが綴られるエッセイです。

第19回 コンビニ勤務記


 台湾にいた頃、私は学力と学歴を活かしてもっぱら家庭教師のアルバイトをしていた。教えたことがあるのは国語と英語、そして日本語である。家庭教師は時給が高く、コンビニ店員の四、五倍だった。

 ところが日本に来ると、台湾での学力と学歴は一切通用しなくなった。日本の義務教育も入試も受けたことがないし、台湾随一の大学に通っていても、日本では「何それ聞いたことない」状態である。当たり前だが、台湾の「国語」と日本の「国語」は内容が全然違う。日本語の家庭教師のニーズが日本にあるとは考えにくい。英語についても日本語で教えるのは難しく、そもそも一年間しか日本にいない外国人留学生を家庭教師に雇おうと考える保護者は皆無だろう。

 では中国語を教えたらどうかとも考えたが、こちらもなかなか働き口が見つからない。近年、日本ではいわゆる「台湾ブーム」が起こり、台湾のプレゼンスが高くなるにつれ、台湾式の中国語(台湾華語)を勉強したいと思う人も増えたが、二〇一一年当時はそんな状況ではなかった。中国語を学ぼうと思う日本人は大抵、台湾人ではなく中国人に学びたがった。いや、その前に、当時の私に中国語を教えられるスキルがあったかというと、これもだいぶ怪しい。確かに私は中国文学を専攻しており、漢文や漢詩の教養がそれなりにあるし、文章力も高かった。しかし、源氏物語や枕草子を教えるのと、初級日本語を教えるのとはわけが違う。それと同じで、私は杜甫や白居易の詩を暗誦したり、近体詩の格律について解説したりできるが、ピンインを効果的に教える方法を必ずしも体得してはいなかった。色々勘案した結果、私にできるのは肉体労働だけだった。

 アルバイトはすぐ見つかった。大学構内のコンビニで、時給は九百四十円。留学生がアルバイトできるのは週二十八時間までだが、フルで働けば月に十万円ほど手に入る計算だ。当時の為替レートでは、台湾の並のサラリーマンの月収に相当する。心躍る数字である。

 実はコンビニも採用されるまで、一波乱あった。もともと私が応募したのは大学近辺の店舗だった。面接してくれたのは三十代くらいの男性の店長で、日本語力を試すつもりらしく、「震災についてどう思いますか」とコンビニとまったく関係のない質問をされた。なんて言ったか忘れたが、あたふたしてうまく答えられなかった記憶がある。

 たぶん本当に人手不足なのだろう、店長はすぐ採用しようとして、「じゃ来週月曜から働いてみてもらおうか」という話になった。ところがその時、五十代に見える女性がいきなり事務所に入ってきて、

「もう採用なの?」

 と詰問口調で店長に詰め寄った。店長がまごまごしていると、

「連絡待ち!」

 と、女性は放り投げるように言い残し、事務所を出ていった。

 後になって考えたら、その女性は恐らくエリアマネージャー的な立場の人なのだろう。つまり店長より偉い人である。女性の一言で、結局即日採用はされず、連絡待ちということになった。

 数日後、店長から電話がかかってきた。マネージャーの意向によりその店舗での採用は難しいが、代わりに大学構内の店舗で働いてはどうか、ということだった。私にとって通いやすい学内の店舗のほうがむしろ好都合なので、すぐ了承した。

 

 コンビニの仕事は、最初は挫折の連続だった。万屋よろずやと張り合えるくらい多岐にわたる業務内容を覚えるのがとにかく大変で、慣れるのに時間がかかった。服装(制服はネクタイ着用だが、ネクタイなんてしたことがない)やレジ操作、接客用語、品出し、レシートロールの替え方、袋詰め、ポイントカード、キャッシュレス決済(今ほど多くはないが、それでも何種類かあった)、宅配便、公共料金の集金、中華まん、コーヒーマシン、フライヤー、おでん、レジ点検、掃除とゴミ出し、廃棄登録、戸締まりなど、すべてゼロから覚えなければならなかった。学内のコンビニなので煙草タバコを売っていないのが幸いだった。でなければ吸いもしない煙草の銘柄まで覚える羽目になる。

 業務内容もさることながら、言語的挫折が特にこたえた。すでに「指数関数的成長期」を経験し、日本語能力試験の最上級に高得点で合格していた私は、自分の日本語力にはそれなりに自信があったが、そんな自信は最初の数日間で音を立てて崩れてしまった。

 まず、長ったらしい敬語の接客用語がうまく言えない。「(商品を)お預かりします」「ポイントカードをお持ちですか?」「○○円になります/でございます」「○○円お預かりします」「○○円のお返しです」「レジ袋はご利用ですか?/袋にお入れしましょうか?」「かしこまりました」「ありがとうございました」「またお越しくださいませ」――なんの変哲もないこれらの文を、私は文法的に理解できるし、自分で作ることもできるが、それをテンポよく言えるかとなると別問題である。

 落ち着いた雰囲気の喫茶店やレストランならいざ知らず、コンビニの接客はとにかく効率が大事だ。日本人の店員を見るとみんな喋るのが速くてなめらかで、平均して一文一秒しかかからない。私はそんなスピードで喋ろうとするとろれつが回らず、うまくいかないことが多い。

 例えば「お預かりします」という文は八音節(正確には八モーラ)で、しかも最初の二音「お・あ」はともに母音なので言いづらい。これを「オアズカリシマスッ!」というふうに一秒以内で言おうとすると、しょっちゅう噛んでしまう。同じように「かしこまりました」は八音節で、「ありがとうございました」となると十一音節だが、これもみんな一秒以内で言えている。一体なんでそんなに速く舌を動かせるか謎だが、自分もそれくらいできるようにならなければ、というプレッシャーを感じた。手を動かして商品のバーコードをスキャンしたりお釣りを取ったりしながら喋ろうとすると、これはもっと難しい。手元の作業に集中しながら、頭で文を組み立てて舌に乗せ、発音とスピードに気を配りながら声に出す。うまくいく時もあるが、緊張すると何が何だか分からなくなり、「○○円のお返しです」を言おうとして「○○円になります」と間違えて言ってしまうこともよくあった。

 外国人なのだからそこまで早口で喋れなくてもいい、ゆっくりでも一言一言丁寧に伝えるのが大事だという考え方もあるが、私のプライドが許さなかった。こと日本語に関しては、日本人にできるようなことなら自分にできなくていい道理はないと、そう思っていた。

 接客用語は所詮定型文で、毎日繰り返しているうちに自然と口が馴染み、速く言えるようになった。ところがお客さんの言葉を聞き取ることとなると、これはまた別の難しさがあった。

 こんなことがあった。ある男性のお客さんの商品をスキャンし、代金を受け取ってお釣りを返した後、私は、

「袋に入れますか?」

 と訊いた。「大丈夫です」とお客さんが答えた。

 一秒くらい経ってから、お客さんはふと、

「すみません、&%$#ください」

 と言ってきた。

 その「&%$#」が私には聞き取れなかった。何かを所望しているのは明らかだが、その何かが分からないのだ。お客さんが発した「&%$#」という言葉は、私には「ラッパ」に聞こえた。ラッパ? 脳内の単語帳を検索し、漢字に変換しようとした。「ラッパ」と言えば「喇叭」しか思いつかない。しかし当然ながら、コンビニに喇叭など置いていない。ひょっとしたら私には分からない別の「ラッパ」があるのではないか? 商品名なのか? それともそもそも聞き間違いなのか? 聞き間違いだとしたら、お客さんの真意は何なのか? ラップ? ラップなら置いてあるが、欲しかったら自分で棚から取ってくればよくて、わざわざ私に言う必要はないだろう。あるいはラップではなく、カップ? コップ? タッパー? ラッパー? 河童かつぱ

 どうすればいいか分からず、私は立ち尽くしたまま、隣で見ていた店長に助けを求めた。「すみません、日本語が聞き取れなくて……」

 すると、店長はただ淡々と、「袋に入れてあげて」と指示しただけだった。

 謎が解けた。そのお客さんが言ったのは「やっぱください」だった。「やっぱ袋をください」という意味だったのだ。「~ください」という文型から、私はてっきり「&%$#」の部分が名詞だと思っていた。しかしお客さんが言ったのは副詞だった。「やっぱ」と「ラッパ」はたった一音しか違わないのに、その一音を間違えると全体的に聞き取れなかった。

 またある時、一人の女性のお客さんはレジが済んだ後、私に話しかけてきた。

「%$&#%&$%#$&$%?」

 ヤバい。完っ璧に、まったく、全っ然聞き取れなかった。当時店内が混雑していて騒がしかったせいもあるが、これほど何ひとつ情報が聞き取れないことって、ある? これでも日本語を六年間勉強してきて、能力試験の最上級に合格している身なのだけれど?

 私はまた店長に助けを求めた。すると店長は悠然と構えて、

「彼女とどっかで会ったことあるんじゃないの?」

 と言った。

 要するにこういうことだ。その女性のお客さんは早大の学生で、私と学内イベントで会ったことがある。しかし相貌失認を疑うほど人の顔を覚えるのが苦手な私は、彼女の顔を覚えていなかった。ところが向こうは私のことを覚えていて、私であることに気づき、話しかけてくれたのだ。彼女が話した内容は恐らく「こないだ○○のイベントで会った李琴峰さんですよね?」みたいな感じだったが、仕事に集中していた私はプライベートの会話であるという発想がなく、それゆえ見事に何も聞き取れなかった。

 いくら教科書で勉強していて、試験で高得点を取ったとしても、実際に職場で使おうとなるとうまくいかないことのなんて多いことか。自分の能力の限界を、コンビニのバイトで突きつけられた気がした。

 

 最初こそこんな体たらくだったが、一か月経つとだいぶ慣れてきて、失敗も減ってきた。大学構内のコンビニだから友人や知り合いがお客さんとして来店するのは実によくあることで、そのたび少し恥ずかしい思いもするが、話しかけられても落ち着いて対応することができるようになった。

 学内のコンビニは二十四時間営業ではなく、夜十時閉店なので、ラストまでシフトが入っている人は閉店作業をやらなければならない。床を掃除したり、ごみを捨てたり、フライヤーや蒸し器を洗ったり、コーヒーマシンの手入れをしたり、レジを点検したりなど、やることが多くて大変だった。

 しかしラストならではの楽しみもある。食品の廃棄作業だ。賞味期限が近くなったサンドイッチや弁当、デザート、そして売れ残った中華まんや揚げ物はすべて廃棄の対象となる。廃棄になった食品は私たち店員のまかないになり、それがとても助かった。なにせ歴史的円高の真っ最中でお金がなく、少しでも食費を浮かせようと、私は毎回廃棄食品をなるべくたくさん持ち帰るようにし、寮の共用冷蔵庫に保存した。二、三日の間はそればかり食べた。

 大袈裟ではなく、バイト先から持ち帰った廃棄食品は、当時の私にとってはちょっとしたごちそうだった。普段の食事は自炊していたが、食材費と時間を節約するために、およそ料理と名乗るのも口幅ったい簡易なものばかり作っていた。パスタを茹でてレトルトのソースをかけたり、肉と野菜を適当に炒めたりして、一日二食か三食やり過ごした。コンビニで売っているような弁当や揚げ物やデザートはもったいなくてとても買えない。だからラストまでシフトが入っていて、廃棄食品を持ち帰れる日が来ると、いつも贅沢な気分になった。賞味期限を少し過ぎたくらいでどうってことなく、冷蔵庫に二、三日置いたフライドチキンを加熱して食べるのも日常茶飯事だった。

 

 バイトの同僚は早大生が多く、日本人と留学生が半々だった。留学生の中でも中国人が一番多いが、韓国人もいた。台湾人は私しかいなかった。

 約半年間のコンビニ勤務で、印象に残った中国人留学生が二人いた。二人とも女性だった。

 一人目をAさんと呼ぼう。Aさんはもともと南京の大学で法律を専攻し、卒業後に公務員として働いていた。しかし、来る日も来る日も変わらない公務員生活に、彼女はある日、ふと怖くなったという。

「毎日毎日、同じ生活の繰り返し。自分の人生が急に、果てまで見えてしまったような感じなの。分かる? 将来の楽しみがもはや何もかもなくなった、あの感覚」

 ある日の休憩時間に、彼女は私にそう打ち明けた。「私はまだ二十代なのに、六十代の生活まで想像できてしまうの。毎日職場に行って、お茶をれて、座って、のんびりしてて、何もやらなくていい。仕事が上がったら両親と散歩したり、ちょっと運動したり、以上。
 私はまだこんなに若いのに、まだ二十代なのに、人生はそんなふうに決められてしまったの。それって本当に怖いことなの。分かる?」

 そんな彼女は二年前、日本語が一言もできないにもかかわらず、たった一人で日本へやってきて、日本語学校に通い始めた。言葉ができないと当然働き口も見つからなかったが、日が経つにつれ日本語も上達していった。今年は早大の大学院にも受かったという。

 しかし、そこに東日本大震災が襲いかかった。心配した両親に促されるまま、彼女は二年ぶりに帰国したが、日本に戻ってきた時、入学手続きや授業料納入の期限はもう過ぎていた。入学資格がなくなったのだ。しかたなく、彼女は留学ビザを維持するために日本語学校に通い続け、アルバイトもしながら来年度の入試に再チャレンジしようとしていた。

 彼女が口にした「果てまで見えてしまった人生」への恐怖に、私は心の底から共鳴したし、楽しみが何もかもなくなってしまった将来を変えるために、勇気を出して言葉の通じない異国に思いっきり飛び込んだ彼女の勇気は、本当にたいしたものだと思った。安定を追い求めながらも安定を忌み嫌う、そんな若さゆえの二律背反が、当時の私の心境と響き合った。

 Aさんと比べ、もう一人の中国人、Bさんにまつわる記憶はあまり愉快なものではなかった。

 はっきりさせておかなければならないが、私は中国人に反感を抱いていない。むしろ共通の言語と文化があるので共通の話題を見つけやすく、仲良くなりやすい。中国人といっても様々な性格、様々な価値観の人がいるので、国籍で人を一括りにして決めつけるのは愚の骨頂である。

 しかし、中国と台湾の複雑な歴史と地政学的な緊張関係は、無視できない背景として厳然と存在している。そんな背景の下で、私は中国人と接する時にまったく警戒心を抱かないと言えば嘘になる。こちらがなるべく相手を国籍で括ったりせず、一個人として接するよう心がけても、相手が同じように接してくれるとは限らないからだ。

 十八歳の夏休み、イギリスに語学留学した時に十七歳の中国人の若い女の子と会ったことがある。そんな彼女の口癖は、「私は中国人です。私は中国を愛しています」だった。私が台湾出身だと分かると、「私は中国人です。私は中国を愛しています」の台湾語を教えてほしいとねだった。

 私は空恐ろしかった。およそ愛国心と呼べるようなものがなく、どちらかというと国家の管理と束縛から自由になりたいと願う私は、洗脳されたように何度も何度も「私は中国人です。私は中国を愛しています」と唱え続ける十七歳の女の子を目の当たりにすると、一体どんな教育を受けてきたのかと想像せずにはいられなかった。彼女は日本人を毛嫌いしていたので、私が日本語を勉強していることも彼女には伝えなかった。

 もちろん、そんな人は少数の例外なのだろう。しかし例外でも、実際に会ってしまったら、本当にどうしようもないのだ。

 Bさんの話に戻ろう。Bさんも女性で、私より少し年上で、早大の大学院に通っていたらしい。コンビニの勤務歴も私より長い。早い話、「先輩」なのである。私は彼女と仲良くしようと時々話しかけたが、彼女はあくまで冷たい態度を取っていた。

 ある時シフトが終わり、たまたま彼女と事務所で二人きりになった。何か話題を見つけないとと思い、私は中国語で彼女に話しかけた。

「実は最初、Bさんのことを台湾人だと勘違いしていたんです。Bさんが喋る中国語は、あまり中国的なアクセントが感じられなかったから」

 私としては純粋に言語学の話をしているつもりだった。台湾式の中国語と中国式の中国語は、音韻面でも、語彙ごい面でも、文法面でも、違いがあるのは厳然たる言語学的事実である。母語話者なら大抵の場合、少し聞けば中国出身なのか台湾出身なのかすぐに分かる。中国人なら、中国語のアクセントでおよその出身地域まで判断できることもある。このように多種多様な中国語が存在するという事実は、中国語という言語の豊かさを示していると私は考えている。そして実際、Bさんの中国語は、少なくとも当時の私の耳には典型的な中国式の中国語には聞こえなかった。

 しかし、彼女はそう思っていなかったようだ。私の言葉が神経に障ったらしく、彼女はすかさず私にこう言い放った。

「言葉なんかで分けてもしょうがないよ。どうせ台湾だろうと中国だろうとみな中国人なんだから」

 いきなりの剣幕に頭が空っぽになり、どう対処すればいいか分からず私が立ち尽くしていると、彼女はさらにまくし立てた。

「そもそもなんであんたは日本人の名前なんかつけてるわけ? 中国人だとばれるのがそんなに嫌なの?」

 確かにあの時、私は大学の通称名制度を使って、自分に日本的な名前をつけていた。学生証でも通称名が記載されていたし、コンビニのバイトの名札でもその名前を使っていた。私にとってその名前は外国人であることを過度に意識されることなく、日本人学生に融け込むための手段だった。自己紹介するたびに外国人だと分かり、その時点で異質な存在として見られるのが嫌だったのだ。当然のことながら、通称名を使おうが使うまいが私の自由で、他人にとやかく言われる筋合いはないが、Bさんはそれをよく思わなかったのだろう。だからずっと私に冷たく接していたわけだ。

 自分への敵意を剥き出しにしたBさんを前に、私は反応に窮した。なんでこんなことを言われなければならないのか分からなかった。黙りこくっていると、言いたいことだけ言ったBさんは荷物を手に取るやいなや、そそくさと事務所を出ていった。遠ざかるBさんの背中を、私は呆然と見送ることしかできなかった。

 Bさんとの一件で、あのコンビニは私にとって居心地の悪い場所になってしまった。Bさんは先輩で、勤務歴が長く、店長からも重宝されていた。彼女と関係を悪くした私は、出勤するたびに針のむしろに座らされる気分になり、ストレスばかりが溜まった。BさんとAさんは仲がよく、二人が裏でどんな話をしたのか分からないが、そのうちAさんまでもが冷たい態度を取り始め、私は一層孤立した。このことは店長にも相談しにくい。私とBさんとのぎくしゃくは結局のところ、台湾と中国の緊張関係を背景にしている。日本人の店長には理解しづらいことだろう。

 初めの頃は、なるべく二人と被らないようシフトの希望を出していたが、次第にそれも嫌気が差してきた。授業やサークル活動が忙しくなったこともあり、結局半年足らずでコンビニのバイトをやめてしまった。

 公平を期して言うと、中国人がみなBさんのように攻撃的というわけではないし、台湾人から嫌な思いをさせられた経験も私には多々あった。

 あれから数年後のこと、マッチングアプリで日本在住の台湾人レズビアンと知り合った。ネットでやり取りしているうちに私たちは意気投合し、実際に会ってみて、気が合えば付き合おうという話にもなった。しかし実際に会って話をしてみると、彼女はなぜか終始冷淡な態度を取っていた。別れ際、彼女は私に捨て台詞を吐いた。「なんであんたは中国人の喋り方なんかを真似するの?」

 私は中国人の喋り方を真似するつもりなど毛頭なく、ただ自分が綺麗だと感じる発音の仕方で話していただけだが、どうやらそれが彼女には中国人っぽく聞こえて、しやくに障ったらしい。それっきり、彼女とは二度と連絡を取らなかった。

 自身のアイデンティティへのこだわりから他者を攻撃したり、細かな発音の相違をナショナリズムに強く結びつけたりする人が、世の中には実にたくさんいる。その中の一部は、たとえ生まれ育った国を出て異国で暮らすことになっても、生国の呪縛からは逃れられない。台湾人というバックグラウンドを背負っているだけで、私は幾度となくそうした事実に直面する羽目になり、そのたびになんとも不毛な気持ちになった。あるいは不毛こそが世界の実像かもしれない。そういう意味で、私は作家になって本当によかった。不毛の地でもなんとか言葉を育む養分を見出すのが作家の営みだ。コンビニで働くことは恐らく今後もうないだろうが、留学時代の勤務経験は後に『ほしつきよる』という小説の貴重な養分になった。

※毎月1日に最新回を公開予定です。

李琴峰さんの朝日新聞出版の本

【好評3刷】生を祝う


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!