
鈴峯紅也「警視庁監察官Q ZERO」第17回
十七
けたたましいベルの音がした。
目覚ましだ。
音からするに、最終兵器として購入した三つ目に間違いない。
と、この朝は薄ぼんやり思考することなく、すぐに理解した。熟睡には程遠い、浅い眠りだったようだ。
夕べというか、もうこの日の早朝になるが、〈Bar グレイト・リヴァー〉を出たのが大体、午前二時半くらいだった。
美加絵に付き合い、観月は六杯ほどカクテルを吞んだ。
三杯目も美加絵が注文した物と同じキングスバレイを吞み、四杯目以降はマスターお薦めのカクテルになった。
深紅のジャックローズから浅緑のキングスバレイ。
その後はマスターのお薦めに移るのが美加絵のコースのようだった。
提供されるカクテルはどれも初めてで、驚くほどに美味しかった。
店を出た後は、三度ばかり小路を曲がって大通りに出たところで、
「拾って帰りなさい」
と、言って美加絵が一万円をくれた。
「私は一度、お店に戻るから」
美加絵の立ち居振る舞いは少しの酔いも感じさせず、銀座のママ然として実に堂々としていた。
観月に遠慮などする暇もなかった。自分がいかに、未だ小娘であるかを身を以て実感させられる。
気付いたら手に、一万円を握らされていた、そんな感じだった。
たしかに少し酔ってもいたが、それだけではない。貫禄の違いだ。
美加絵は、ほっそりとした手を振って笑った。
「またね。縁があったらうちのお店にも。――いえ、忘れて」
そんな言葉で美加絵は離れていった。
観月は美加絵の姿が見えなくなってから、流しのタクシーを拾った。
笹塚を口にした。
裕樹にタクシーを契約してもらって初めて実感したことだが、深夜の都内は驚くほどに距離が近い。
いや、距離感として近い、という方が正しい言い方か。
交通量も少なく渋滞もなければ、二十三区はどこへ行くにもあっという間だ。仮眠も長考もする暇はない。
井の頭通りから中野通りに入り、五條橋の交差点の辺りでタクシーを止める。
いつも使っているタクシーならもう少し走った先を左折してもらい、緑道を渡るところで降ろしてもらう。
そこからなら緑道を、笹塚駅に向かう方向に歩いてドミトリーまでは百メートル程度だ。住宅街なので少し暗いが、このルートが一番近いので仕方がない。
乗ったままタクシーに笹塚駅前に回ってもらえれば、何軒かは眠らない観音通り商店街を通ることになって明るいことはわかっている。
が、酔っ払いは必ずいて、〈防犯〉的にはどちら側で降りても大差ないかもしれない。それに、最終的に歩かなければならない緑道の距離も違いはわずかだ。
第一、一方通行の駅前に入るには、井の頭通りをさらに下らなければならず、結構どころか大いに遠回りになる。
このとき、流しのタクシーを五條橋の交差点で止めたのは、目の前が二十四時間営業のコンビニだったからだ。
明るかったということもあり、のぼり旗に新作ドーナツが揺れているのを見て、少しの空腹を感じたということもあった。
美加絵に貰った一万円で支払いの遣り取りをしてタクシーを降りる。
そのままコンビニに入ろうとして歩を進め、自動ドアの近くで立ち止まった。
一度目を閉じ、大きく息をする。
(なんかなあ)
よくわからないが、風に少し障る匂いを感じた。匂いというか、嫌な感触、予感と言った方が正しいか。
携帯を開き、時刻を確認する。
午前三時を、すでに大きく回っていた。
(今食べたら、さすがに身体には負担だよね。多分。きっと)
頭を振り、それで新作ドーナツの誘惑を振り切って住宅街に足を向けた。
そうして二百メートル強を歩き、笹塚のドミトリーに到着したのは三時半過ぎ頃だった。
足音も立てずに完璧に入った、つもりだった。
紛れのない自負はあったが、寮母の竹子の部屋からやけに大きな咳払いが聞こえた。
まさか起きていたのだろうか。
(眠れない夜。いやいやいや。起きてたとして、やっぱり、寝起きよね)
老人の朝は早い。
そう考えた方がしっくりくるので、観月は特に深く考えるのはやめた。
風呂場で簡単に手早く全身を洗い、力任せに髪を拭いてベッドに向かった。
こういうとき、短い髪は便利だとつくづく思う。
それから大体、三時間半ほど眠った恰好だった。
それくらいでもあまり疲れが残らない若さと鍛え方は今のところ自慢だったが、この朝はわずかに身体が重かった。
前夜というか、この早朝の大立ち回りの影響では有り得ない。六人程度の半グレなど、筋肉に負荷を強いるほどの相手ではなかった。
(お酒、かな。カクテルって、なんか強いのよね)
酔った感覚はまったくなかったが、身体にダメージは残ったかもしれない。
なんと言っても、この日は退店前に小振りな生麩饅頭を三つしか食べていなかった。
脳の栄養補給にはなったが、空きっ腹が埋まるほどではなかった。
そんな腹に、色も種類も取り取りのカクテルだ。
アルコールの摂取は時と量と種類により、睡眠を浅くするというのはどこかの研究結果にもあったと思う。
そんなわけで、この朝の最終兵器のけたたましさはいつもより頭に響いた。
ただ、浅いとは言っても携帯のアラームや二つ目までの目覚ましで起きることはなく、いつも通り投げ捨ててはある。
つまり二日酔いには程遠い健康状態だ。
腹はすこぶる快調に減っていた。
「ううんっ、と」
声に出し、大きく伸びをする。
「今日は、あ、水曜日か」
起き上がると、完全に覚醒した耳に、階下で鍋の底を叩く音がかすかに聞こえた。
「うわ。アラートだ」
起き上がったままのジャージ姿で、スリッパを突っ掛ける。
ここからはいつもの攻防戦になる。
スリッパの音を響かせ、階段で三階から一階の食堂に走る。
ショートボブの後ろ髪がいつもにもまして重い。盛大に撥ね上がっているようだ。洗い晒しでそのままベッドに潜り込んだ結果だろうが、構っている場合ではないのでそのままにする。
一階に降りる頃には、デッドエンドに向かって鍋音はマックスに速かった。
「よっ。とぉ」
スリッパの音も高く、観月は食堂に、本当に飛び込んだ。
「げっ。セーフじゃん」
「やりぃっ。今日の日替わりスペシャルゲットだわぁ」
「うわ。スペシャルって、今日のが一番高いのにぃ」
知ったことではないが、いつもの〈観月カルチョ〉の悲喜こもごもが聞こえた。
無視してキッチンカウンターに急ぐ。
「遅いよ」
割烹着に三角巾で、細い目、抑揚のあまりないトーン。
通常モードの竹子が、暖簾の下のカウンターに銀色のトレイを置いた。
「遅いとかの前にさ。あんた、今日は早くからずいぶん騒がしかったし。おちおち寝てられないさね。勘弁しとくれ」
「うわ。あれで、やっぱりわかっちゃってたんだ」
観月はカウンター上の箸立てから、ランダムに箸を抜き取った。
「でもそれって、竹婆がさ」
「寮長」
「寮長が早起きすぎでしょ。歳なんじゃない? 歳」
碗に飯を盛る竹子の手が止まる。止まるどころか戻る。
「飯、減らそうかね。歳だとね。盛ると重いさね」
「ゴメン」
そのままの碗がトレイに載る。だが、
「いい加減にした方がいいんじゃない」
と、忠告もおまけについてきた。
「えっ」
「あんたの本分はさ、学問、いや、学んで遊んで、鍛えて。泣いて笑って。そう。学生であることさね。アルバイトもいいけど、けど、いくらアルバイトでもさ、あんまり遅いのは、感心しないさね」
「そうかな。――うううん。そうかもね」
味噌汁がトレイに載る。少し零れる。
「夕べってぇか今朝方だって、この辺を野良犬がうろついてたみたいだよ」
焼き鮭とカップの納豆が載せられる。
「ただの住宅街だって、あんまり安心はできないってもんだ。あたしゃ、あんただけじゃないけどさ。親御さんから大事な娘を預かってるんだ」
味付け海苔、生卵、竹子自慢の沢庵漬けが載ってワンプレートだ。
観月はそれを見ていた。
変わらない朝食に、変わらない、あるいは変わってはいけない日常を思う。大事なことで、有り難いことだ。
竹子の忠告に、自ら反省すべき部分は、さすがにないではない。
ということで、反論は絶無という結論に至る。
「わかったかね?」
「へぇい」
出来上がったワンプレートを持ってテーブルに向かう。
「お早う」
医学部志望の梨花がまたいた。
これも日常の、大事なこと。
変わることのない、大切な時間。
「ねえ。観月。打ち合わせって終わったんでしょ。結局いつになったの?」
「えっ」
「サロンよ。決まってるでしょ」
「ああ。来月二十日」
「二十って。え、それって駒場祭の直前じゃない」
「怒濤の祭りラッシュだって」
「なによそれ。だいたいさ。早くって頼んだのに、まだ三週間もあるじゃない。そんな先なの?」
「でも、朗報もある」
観月は味噌汁の椀に口をつけた。
「卒業前にさ。希望があるなら、もう一回やってもいいって」
「まっ」
両手を合わせ、発条仕掛けのように梨花が立ち上がった。
そのまま分けた左手をトレイに伸ばし、右手で観月の肩を叩く。
「やるじゃないのよ。さすが観月。さすが会長」
「うわっ」
衝撃で味噌汁がジャージに零れた。
汁は熱くないからいいとして、ジャージに張り付く千切りカスのようなワカメを、指で摘まんでトレイに置く。
「じゃあね」
色々とお構いなしに、梨花が自分のトレイを持ってキッチンカウンターに向かった。
「おら、医学部志望。また沢庵、残したね。今度こそ、本気で主菜抜くさね」
竹子の脅しが食堂に響き渡る。
「これも日常、かな」
竹子自慢の漬物を摘まみ、観月はゆっくりと味わった。
※毎週木曜日に最新回を掲載予定です。