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年森瑛「バッド入っても腹は減る」第7回

パスタを茹でながら、キャベツを煮込みながら、一冊の本をじっくり読む――。いちばん読書がはかどるのはキッチンだ。
いま最注目の新人作家による、おいしい読書エッセイ。
毎月15日更新予定。

撮影 年森瑛

 クロネコヤマトの配達通知が届いたので玄関脇のポストを確認しに行くと、開きっぱなしのフタから郵便物がいくつも飛び出ていた。無理矢理突っ込まれた分厚いゆうパックとメルカリの箱、スポーツジムのチラシ、それから奥で丸まっていた都知事選の広報誌を引っこ抜く。ゆうパックは担当さんからの献本だった。
 というわけで、いただいた『私の身体を生きる』をさっそく読む。これは女性として生きる17名の書き手が自らの身体について語るリレーエッセイ集で、『文學界』で不定期連載していた頃から追いかけていた企画だった。
 私の身体は私のもの、と断言することは難しい。とくに、女性として生きている人が自らの魂に応じて身体を運営することは容易ではないのだろう。異性の欲求を満たすこと、子どもを産む装置になること——他者に使用される身体であることを日常的に求められながら、突然の暴力によって身体の尊厳を奪われることもある。他者への順応と抵抗の狭間で生き続けてきた人がいざ自らの身体について考えようとすれば、思考はぐちゃぐちゃに絡まったネックレスみたいな冷たい塊になっている。どこから手をつけていいのかも分からないようなそれを、書き手たちは緊張感のある手つきでほどいていく。

 さすがに汁が飛ぶかもしれんと思い、本は冷蔵庫の上に置いた。『これ絶対うまいやつ♪』という商品名の即席ラーメンがあると聞き、その自信満々さに興味をかれて5年ぶりくらいにラーメンを作ることにしたのだった。大手メーカーが自画自賛するほどの商品がどれほどのものか確認したかったのもあるし、先日参加した、新人作家がバーミヤンで満漢全席する会でラーメンを食べ損ねたのも理由の一つだった。
 沸かした湯に乾麺を入れてでている間、隣のコンロでフライパンにごま油をひく。もやしを底に置き、その上からニラと青梗菜チンゲンサイをキッチンバサミで食べやすいサイズに切り落とす。にんじんはピーラーで短めにスライスしたのを同じように落としてジャジャっと炒める。実家でよく出ていたやつだが、一人で暮らすようになってから食べる機会がなかった。自分だけのために麺を茹でるのが面倒だったし、なにより中華料理は兄のほうがうまいのだ。どうせ劣るなら作らなくてもと思っていたが、そろそろ兄の味も忘れてきたのでいいだろう。麺がほぐれてきたらうつわに背脂醤油しようゆの液体スープを入れて、お湯だけ先に混ぜ溶かす。麺を入れてさきほど炒めた野菜をのせ、白ごまをこれでもかと振ったら完成である。熱くて食べられないので少し放置。
 しかしこうして1冊の本としてまとめて読んでみると、性にまつわる話が多くを占めていることに気がつく。妊娠、出産、自慰、性暴力。女性が自らの身体を考えようとすれば、性について書かざるを得ないのだろうか。
 女性が性を語るとき、それは異性を悦ばせるためのポルノとしてしばしば扱われると同時に、欲望をき立てない語りは汚物のように唾棄だきされる。どちらにせよ、ここで性についてつまびらかに書いたことがいつか書き手を傷付けるのではという懸念が私の頭をかすめた。書き手の矜持きょうじを見くびるような、過保護な横やりであることは重々承知している。しかし、本件に限らない話だが、なぜ当事者ばかりが言葉を尽くして語らねばならないのだろうという気持ちが拭えないのだった。書き手の一人である柴崎友香はこう述べている。

 女性が自ら身体や性について自分の言葉で語ることは長らく抑圧されてきたが、一方で、身体や性について説明や理由を求められるのも、女性や性的マイノリティの側である。語らされないのも、語らされるのも、同じ構造のもとにある。つまりは、中心にいる側の人の言葉で中心にいる側の人にわかるように語れ、ということで、「わかる」かどうかは中心にいる側の人が決めてきたということ。(『私の身体を生きる』p.180)

 柴崎は編集者にこの企画の趣旨を確認し、上記の疑問を共有したうえで書いている。私は書き手に身勝手な同情を寄せたいのでも、編集者を問い詰めたいのでもない。私としても読んでみたい話であったし、社会的な意義のある企画だと思う。ただ、誰かが被害を語るとき、身を潜めて沈黙している人がいるであろうことをここに記しておきたいのだった。
 このリレーエッセイが掲載されていた『文學界』では、書き手を男性に絞った『身体を記す』が連載中である。男性もまた、自らの身体について真摯な言葉を発する場を奪われているように思う。こちらも単行本化することを願っている。

 少ししか放置していないつもりが、ラーメンはすっかり伸びていた。ぶよぶよに伸びきった麺をすする。ラーメンというよりまぜそばみたいだった。冷めて食感が変わっただけで味は変わらないはずなのに、違う食べ物のようだった。ラーメンに聞いたら何と答えるだろう。自分はめっちゃウマいラーメンだと堂々と言いきれるのだろうか。
 「女性の身体をもって生きることで困難なことはありましたか」とたまに取材で聞かれることがあった。私はというと、幸運なことにつらい思いをしたことはほとんどなかったのでそう答えたはずだ。記事には反映されたりされなかったりした。インタビュアーはほとんど女性で、同じ女性の身体を持って生きる者として小説に共感したと伝えてくれる人が多かった。
 しかし、私には彼女たちと広く共有できるような背景がほとんどなかった。女だから否定されたこと、女だから強いられたことがない。進学先も就職先も自由に選んだ。兄弟に比べて思いやりがないことで母親からよくしかられていたが、その時はきまって「人として大切なものが欠けている」と言われており、女の子だからああしろこうしろこうするな、と言われた記憶がない。だから女性であるがゆえの苦しみを抱えた方に共感を示されると申し訳なくなる。私は女性という当事者性を担保にしてこの人たちをだましているんじゃないか?
 女性であるがゆえの苦しみというのは、私にとっては違う階層の話だった。私は模範的な女性であることよりも、人間らしい人間になることを多く望まれた子どもだったし、今も人間を模倣することに四苦八苦してばかりいる。
 昨日、職場の重役が視察にきた。同僚たちが口々に「おはようございます」を言う。すると私の脳みそのどこかが勝手に判断する、この場に必要な「おはようございます」がもう埋まったからこれ以上の「おはようございます」は必要ないだろう、それで私の口はさっぱり動かなくなる。挨拶あいさつしないといけないことは分かっているのに唇は貼りついたみたいに閉じたまま。無言で突っ立っているわけにもいかないので、へらへらと小刻みにお辞儀をしてやりすごす。いつものことだ。私の身体は私の要請に従ってくれない。
 そういうわけで、身体についてならともかく、女性としての私の身体のことはあまり書けそうにない。「女性の」という冠がつくすべての事柄に対してそう思う。だから私が女性を取り巻く問題について意見するとき、それは私の個人的な苦しみを慰撫いぶしたり、後ろめたさを埋めるために行うのではなくて、身近な他者として言葉を紡ぎたい。

年森瑛(としもり・あきら)
1994年生まれ。作家。『N/A』で第127回文學界新人賞を受賞し、デビュー。

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見出し画像デザイン/撮影 高原真吾