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美しき数式――私的日本語文法論(前編)――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第8回

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台湾出身の芥川賞作家・ことさんによる日本語との出会い、その魅力、習得の過程などが綴られるエッセイです。

第8回 美しき数式――私的日本語文法論(前編)


 表記(文字)、音韻(発音)、語彙(単語)――日本語を学習し始めた頃に感じていた日本語の魅力について書いてきたが、言語学習でもう一つ身につけなければならないものがある。そう、文法である。

 文法とは大雑把に言えば、文を構成する際に従うべき法則のことである。例えば「私は昨日会社に行って仕事をした」という文は、「私/は/昨日/会社/に/行く/て/仕事/を/する/た」といった要素でできているが、要素さえそろえば正しい文ができるというわけではない。「昨日私は会社に行って仕事をした」「昨日会社に行って私は仕事をした」というふうに要素の順番を入れ替えても文は通じるが、「*はにて私昨日会社行く仕事たするを」では通じない。また、「*私は昨日会社に行かて仕事をしろた」のように、動詞の活用を間違えたらやはり文として成り立たない。このように、文として成り立つ/成り立たないを決める法則――構成要素の順番や組み合わせ方、活用の仕方など――が、文法である。

 新しい言語を学ぶ時、学習者はおびただしい数の文法項目を覚えなければならない。これはとても大変なことだ。英語の学習経験を思い出せば分かるだろう。当然、日本語も例外ではない。五十音や単語は一人でも覚えられるが、文法は独学だとどうしても限界がある。

 独学の中学時代、私が頼れるのは本しかなかった。書店で入手した文型の学習書には初級レベルの文型が何十個と収録され、簡単なものから難しいものという順番で並んでいた。最初に来るのはこんなものだった。

・A[名詞]はB[名詞]です。

・A[名詞]はB[名詞]ではありません。

・A[名詞]はB[名詞]ですか。はい、A[名詞]はB[名詞]です。/いいえ、A[名詞]はB[名詞]ではありません。

・A[名詞]はB[名詞]です。C[名詞]もB[名詞]です。

 名詞しか使われないこれらの文型はすぐ覚えられ、「これはペンです」「地球は私たちの星です」「あいつは人間ではありません」「あなたたちは恋人ですか」「私は学生です。あなたも学生です」といった例文も難なく作れた。ページをめくっていくと、やがて形容詞と動詞の文型も出てきた。

・A[名詞]はB[形容詞]です/くありません。

・A[名詞]はB[形容動詞]です/ではありません。

・A[名詞]はB[名詞・場所]にあります/います。

・A[名詞]はB[名詞・場所]へ行きます/来ます。

・A[名詞]はB[名詞・場所]でC[名詞・目的語]をD[動詞]。

 ここまで読んで、私は日本語のいくつかの特殊性に気が付いた。まず、日本語の形容詞には「形容詞(赤い、青い、明るい、美しい、おいしい)」と「形容動詞(上手、下手、好き、嫌い、綺麗)」の二種類があり、それぞれ違う文型が適用されること。次に、日本語では主語が生物か無生物かが大事で、生物なら「いる」、無生物なら「ある」を使うということ。最後に、日本語では「助詞」というものがあり、助詞はその前の言葉が文中で果たす役割を示しているということ。例えば「で」は動作の場所を、「へ」は動作の目的地を、「に」は存在の場所や動作の時間を、「を」は動作の目的語を、「は」は動作の主語を示している、というふうに。助詞があるから、語順は比較的自由なのだ。

 日本語母語話者なら当たり前に思われるこれらの特徴は、しかし中国語とも英語とも異なる。英語では形容詞は二種類存在しないし、生物か無生物かによって異なる動詞を使ったりしない。また、中国語も英語も語順は大事で、「我愛你/I love you.」と「你愛我/You love me.」とで意味が真逆になる。しかし日本語では「私はあなたを愛している」も、「あなたを私は愛している」も、意味は同じなのだ。

 日本語の文法は、私にある種の数式的な美しさを感じさせた。日本語の文はいくつかの「文節」によって構成され、それらの「文節」もまた「名詞+助詞」(この言い方は厳密には間違っているが、当時の私はこのように大雑把に理解していた)によって構成されており、文の最後に動詞か形容詞が来る。その足し算的な構造自体がとても新鮮で楽しかった。

 とはいえ、文型の学習書をあるところまで読み進めると、やはり壁にぶち当たってしまう。文型同士の間の微妙なニュアンスの違いがなかなかつかめないし、自分が作った例文を添削してくれる人もいないからである。

 例えば、こんな文型がある。

・A[名詞]はB[名詞]がC[形容詞]です。

 俗に「『象は鼻が長い』構文」と呼ばれるこの文型から始まった論争は、日本語学を専攻する人なら知らぬ人がいないほど有名なものである。「象は鼻が長い」みたいな文――「日本は冬が寒い」「春は花が綺麗」「彼は背が低い」など――における主語は何なのか、というのが中心的な論点である。

 英語の場合、「An elephants trunk is long.」という文なら主語は間違いなく「trunk」であり、「Elephants have long trunks.」なら主語「elephants」なので、議論の余地はないだろう。日本語でも「子供は家にいる」みたいな文なら、助詞「は」の前の「子供」を主語として理解して差し支えない。

 しかし、「象は鼻が長い」みたいな文には「は」と「が」があり、どちらも主語を示し得る。ではこの文の主語は一体何なのか、「象」なのか「鼻」なのか、はたまたその両方なのか、あるいはどれも主語ではないのか。そこから始まる議論は、日本語における「は」と「が」の違いは何なのか、そもそも日本語文に「主語」という考えがそぐわないのではないか、といった問題意識に発展し、多くの研究者が様々な学説を提示しており、いまだに定説と言えるものはない(*1)。

 そう、日本語学の世界で大論争を巻き起こしたこの構文は、日本語では極めて基礎的な文型であり、初級レベルのごく最初の段階に出てくる。当然、これは初心者の私を大いに困惑させた。「象の鼻は長い」「日本の冬は寒い」と言えばいいところを、何故わざわざ「象は鼻が長い」「日本は冬が寒い」と言うのか、両者の違いは何なのか、そもそも「は」と「が」はどう違い、どのように使い分ければいいのか(「は」と「が」の使い分けについては特に難しく、上級レベルになっても悩まされた)――その本の短い説明と例文では到底私の疑問に答えることができなかった。

 また、こんな文型もあった。

・A[名詞]がB[動詞終止形]と、C[名詞]がD[動詞]。

「春が来ると、花が咲く」「雨が降ると、地面が濡れる」のような例文が挙げられるこの文型は、「前の事柄が起こってから間を置かずすぐ後ろの事柄が起こる」、または「前の事柄が起これば必然的に後ろの事柄も起こる」といった意味を表す。これもまた初級レベルの文型だが、使いこなすのはなかなか難しい。英語の「As soon as……」や中国語の「一……就……」に意味的に似ているのでそこから類推し、「母が家へ帰ると、弟がテレビを消します」「彼女が手紙を書くと、郵便局に行きます」といった文を作ってみたが、添削してくれる人がいないので正しいかどうかもよく分からなかった。

 そして、こんな文型に出合うと、いよいよ白旗を立てるしかなくなり、それ以上読み進めることができなかった。

・A[動詞]てください。

 極めて初歩的な文型だが、ここの「動詞」はどういう形を取ればいいかよく分からなかった。その本には全く説明がなく、例文を読んでもどうやら色々なルールがあるようで見当もつかなかった。「言う」は「言ってください」なのに「歩く」は「歩いてください」、「起きる」は「起きてください」――どうやら独学ではここが限界のようだ。そもそも、ひたすら文型を覚えていくという無味乾燥な作業に私は飽きていた。そこで私が逃げ込んだのは、「活用表」の世界だった。

 文型の学習書で勉強していたのと同時期に、私はある教科書も読んでいた。それはかなり時代遅れの硬い教科書で、初級の学習者を対象にしているにもかかわらず、「用言」「体言」「連用形」「連体形」といった文法用語がバンバン出てくるし、「有難う御座居ます」「出来ます」といった具合に漢字表記がなされていた。その教科書では当たり前のように、動詞と形容詞、形容動詞の活用表が載っていた。

 先ほど、日本語の文法に数式的な美しさを感じたと書いたが、活用表はまさしくその極致なのだ。動詞の活用表を例に挙げよう。

 日本語の動詞は五種類に分けられ、それぞれの動詞には活用しない「語幹」と活用する「語尾」がある。活用語尾には六種類の活用形があり、それぞれの活用形に続く言葉が決まっている。例えば「書く」に否定の「ない」を接続させたい場合は「書+か(未然形)+ない」、「変える」に仮定の「ば」を接続させたい場合は「変+えれ(仮定形)+ば」というふうに、言いたいことに応じて足し算をしていけばいい。

 私はすぐ活用表の美しさに魅了された。何しろ一枚の表で全ての活用が網羅されているのだから、なんて論理的で、規則正しい言語なのだろう! 英語を勉強しても、こんな綺麗な活用表なんて与えられなかった。英語の動詞活用と言えば、あの忌々いまいましい過去形があるではないか。基本的に「talk→talked」のように語尾に「-ed」をつければいいが、「arrive→arrived」のように元々「e」がある時は「-d」を足すことになり、逆に「stop→stopped」のように語尾の子音を繰り返さなければならない場合もある。ここまではまだいいとして、あの覚えても覚えきれない夥しい数の不規則動詞(keep→kept/run→ran/read→read)は一体全体何なのだろう。日本語の場合、不規則動詞=変格動詞はたった二つ、「来る」と「する」だ。動詞だけでなく、形容詞や形容動詞にも同じような活用表がある。活用表さえ覚えておけば、表現の幅が飛躍的に上がるのではないか。なんて効率的! 言語学習における私の頭の良さ――あるいはざかしさ――は、こんな時に遺憾なく発揮された。

 もちろん、今なら分かる。日本語の動詞活用とてそこまで規則正しいというわけではない。例えば「笑う」はア行五段活用動詞(笑います、笑えば、など)だが、未然形だけア行ではなくワ行になってしまう(笑わない)。また、活用表も別に全てを網羅しているわけではない。例えば、大抵の活用表では「音便おんびん」が捨象されているのだ。

「音便」というのは、「発音上の便宜により、語中・語尾の音が他の音に変化すること」(大辞泉)である。動詞の活用に関して言えば、主に「て形」を作る際に見られる。「て形」とは先に例に出した「A[動詞]てください」といった文型に使われる動詞の活用形で、例えば「書く→書いて」というものである。これは本来「動詞連用形+て」という形を取るもので、例えば「書く→書きて」という形になるはずだが、現代日本語では発音しやすいように「書きて→書いて」という変化が起きている。この変化とは即ち、音便である。

 動詞の「て形」(とりわけ五段動詞)に関するルールは煩雑である。以下に整理してみよう。

■五段動詞

 ・語尾が「う・つ・る」のもの:そく音便「-って」

  例:吸う→吸いて→吸って

    打つ→打ちて→打って

    走る→走りて→走って

  ★例外:問う→問うて

 ・語尾が「ぬ・ぶ・む」のもの:はつ音便「-んで」

  例:死ぬ→死にて→死んで

    飛ぶ→飛びて→飛んで

    読む→読みて→読んで

 ・語尾が「く」「ぐ」のもの:イ音便「-いて」「-いで」

  例:歩く→歩きて→歩いて

    泳ぐ→泳ぎて→泳いで

  ★例外:行く→行って

 ・語尾が「す」のもの:音便が起きない

  例:話す→話して

■上一段動詞、下一段動詞:連用形+て(「る」を取って「て」をつける)

  例:沁みる→沁みて

    忘れる→忘れて

■変格動詞:連用形+て

  例:来る→来て

    する→して

 このように、「て形」を作るためにはまず動詞の種類を判断しなければならず、「五段動詞」に該当する場合は例外に注意しながら、その語尾に応じて適切な音便を選択しなければならない。日本語母語話者なら無意識に、しかも瞬時に行っているこの複雑な作業を、学習者は知識として頭に叩き込み、何度も何度も練習し、自動化させる必要がある。動詞の活用、それは五十音に続き、日本語学習者の前に立ちはだかる第二の難関である。
                              (続く)

*1 この議論に深く立ち入ることは避けるが、日本語の「は」が示すのは「主語」ではなく「主題」であるとする説が有力で、私もそのように理解している。「主題」という概念は、中国語や韓国語の構文を理解するにも役に立つ。

※毎月1日に最新回を公開予定です。

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