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【榎本憲男著『アガラ』書評】考えろ! 祝福される未来のために

榎本憲男さんの書き下ろし長編エンターテインメント『アガラ』について、「一冊の本」25年2月号に書評家の藤田香織さんが執筆された書評を掲載します。アメリカと中国が手を組み、自由と平等と平和が実現した理想社会は、果たして人類に明るい未来をもたらすのか? 作品が突き付けてくる問いを書評家の藤田香織さんが読み解きます。

榎本憲男著『アガラ』(朝日新聞出版)

考えろ! 祝福される未来のために

 たとえば。
 ある日突然、街頭インタビューなどで、「今この国の未来について、どんな展望を抱いてますか?」と問われたとして。明確なビジョンを言葉にできる人は、どの程度の割合で存在するのだろう。
 個人的には、自分の五年後、家族の十年後でさえ予定は未定でしかなく、計画どおりに進む未来が想像できない。ましてや国や世界の将来など、自分が考えたところでどうなるものでもないし、という思いが根強くある。
 興味がないわけではない。夫婦別姓も教育費の無償化も格差の是正も大問題だ。多様性を認め合い個々が尊重される自由で明るい未来になればいいなと願ってはいる。でも、そのために特別な苦労をする余裕はない。「誰か」が、そんな未来を構築してくれることを願っているのだ。
 しかし榎本憲男の新刊『アガラ』を読んで、当事者意識の薄さに焦りを感じた。この感覚はヤバい。他力本願の明るい未来なんてドリームすぎる。本書は、停止しかけた思考に強い刺激を与える、ある種の取り扱い注意本だ。
 語り手となるケイ・ウラサワは、十代のころプロのバンドマンとしてギターを弾いていた経験がありながら、アメリカ合衆国国軍に入隊した変わり種。しかし二〇三七年、彼の入隊とほぼ同時期に、世界の国民国家は統一され「大同世界」が誕生した。
〈平和で自由で平等で、差別のない、誰もが幸せになれる世界を実現する〉と謳われた「大同世界」は、国境もなければ国もない。領土を奪い合うこともないので戦争もない平和な世界。生まれた場所や肌の色で人を貶めようとすれば、厳しく処罰され、差別も解消された。同性愛も自由。AIとの恋愛を公言する者さえ現れる。少し前からAIに仕事を奪われ職に就けない者も増えていたが、食うに困らない程度の暮らしができる保障があり、働かなくてもそこそこの暮らしができていた。
 これぞまさしく、誰にとっても明るい未来だ。大同世界を平和と自由と平等の理念で回し続けるためにDAI(分散型自立機関)なるアルゴリズムが書かれ、人々の体にはあらゆる個人データを記録したバイオチップが埋め込まれた。面倒な手続きが省略され、健康や財産管理もできる。煩わしいことは考えずに生きていけるようになったのだ。
 一方で、DAIは大同世界を維持するために、監視も強めていく。戦争に行く代わりに「大同世界」の秩序維持軍に所属することになったケイは、二〇五〇年、DAIから日本の和歌山県の山奥にある〈アガラ〉と呼ばれるコミュニティに潜入を命じられる。全世界で統一されたはずの共通秩序を乱す、宗教行為が行われているかを探るため、恋人役に任命されたエレナと共に調査活動に着手した。
 この〈アガラ〉で、ロックフェスが予定されていて、ケイとエレナが音楽と宗教の関連性を潜入調査する過程がひとつ大きな読みどころだ。パンクロックやバンドは榎本作品においてしばしばキーポイントとして使われるが、今回も唸るものがある。随所でケイが説くパンクロックの歴史と蘊蓄。日本の古いパンクバンド曲として語られるブルーハーツの「リンダリンダ」。その歌詞の意味をエレナに問われたケイの答えがふるっている。〈「パンクは、愛がなんだ! って吐き捨てたけど、やっぱり愛しかないってところに戻るんだ。“決して負けない強い力”ってのは、愛なんだよ」〉。この後に続く大同世界によって、この世界からラブソングが消えていった、という考察が沁みる。巧い。
 けれど何より胸に残るのは、「考える」ことの意味だ。
 ケイとエレナの調査の結果、「故障」があると判断されれば〈アガラ〉とその住民たちにはDAIから「警告」「修理」「漂白」の指示が下される。生きている人間には、理性も感情もあるが、アルゴリズムのDAIに「情」はない。命令には、どんな偉人も巨大組織も従わなければならない。
 果たして平和と自由と平等と便利さを享受する代わりに、思考や理念や欲望をコントロールされることは幸せなのか。自分が目にした物事よりも、与えられた情報を信じていいのか。読み進むうちに、考えろ、考えろと鳴り続けていた警告音がどんどん大きくなっていく。
〈アガラ〉での出来事は二〇五〇年、本書はそれを三十年後の世界からヒロが語る形式で綴られていく。遠い未来から近未来を振り返っていることになるが、実はここにもうひとつの仕掛けもあり、強く胸を突かれる。
 これは未来の話ではないのだ。眼を逸らしてはいけない。考えろ、考えろ、考えろ。
 祝福される明るい未来は、自分の手で掴むのだ。