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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第5回



 西葛西駅から電車に乗り、都心部へ向かう。

 車内は思ったよりも混んでいた。ドアのそばに立ったまま、尾崎は流れる風景を見ていた。

 東京メトロ・東西線の電車は西船橋から西葛西まで、高架の上を走っている。そしてその先、南砂町駅の手前から地下に潜る形になる。なぜかというと、西葛西と南砂町の間には荒川があるからだ。川の下を掘り抜くのは難しいから、建設当時そのように設計されたのではないだろうか。

 地下に入ると窓の外が暗くなった。明かりがガラスに反射して、振り返らなくても車内の様子が見えるようになった。尾崎の斜めうしろに広瀬が立っている。彼女はスマホの画面を見つめ、指を素早く動かしていた。何かを検索しているのか、それとも現場付近で撮影した画像などを確認しているのか。

 ふと思い立って、尾崎は彼女のほうを向いた。

「何か嫌いなものはあるか」

「はい?」不思議そうな表情で広瀬は言った。「嫌いなもの、というと……」

「今日の昼飯をどうしようかと思ってさ。何が食べたい?」

 そうですね、とつぶやいて、彼女は思案顔になった。

「アレルギーなどはありませんし、特にこれが苦手というものもありません。尾崎係長にお任せしたいと思います」

「初日だから奢るよ。何が食べたい?」

「恐縮です。……仕事中ですから、早く食べられるものがいいんじゃないでしょうか」

「だとすると、立ち食いそばになってしまうぞ」

「尾崎係長がそうしようとおっしゃるのなら、それでかまいません」

 真面目な口調で彼女は言う。どうやら、尾崎の冗談は空振りになってしまったようだ。

「まあ、立ち食いそばってことはないよな。あとで店を探そう」

「それがいいと思います」にこりともせず、彼女は言った。「高田馬場なら、お店も多いと思いますし」

 三十分ほどで電車は高田馬場駅に到着した。

 すでに午後一時半を過ぎているが、先に仕事を進めておきたい。食事は後回しにした。飯を食っていて大事な情報を取り損ねた、などということになったら後悔するだろう。

 改札口を出て、目的地の場所を再度確認しようと、尾崎は広瀬のほうを向いた。

 彼女はスマホを耳に当て、誰かと通話をしているところだった。尾崎に気づいて軽く頭を下げたが、そのまま話を続けている。二十秒ほど経ってから彼女は電話を切った。

「どうした?」

「ちょっと個人的な連絡をしていました」

「緊急だったのか? 仕事中に私用の電話は困るな」

「すみませんでした」広瀬はスマホの画面に地図を表示させた。「では行きましょう、係長。こちらです」

 彼女はロータリーの北のほうへ歩きだす。

 今のは何だったんだろうと思ったが、深く追及することもなく、尾崎は彼女のあとを追った。

 新陽エージェンシーの事務所は、早稲田通りに面した雑居ビルの一階にあった。先ほど訪れたクマダ運輸のような作業スペースはなく、外から見ると不動産会社か何かのような事務所だ。

 道路のこちら側で信号待ちをする間、尾崎はそのビルの前にいるふたりの人物に目を留めた。ひとりは黒いスーツを着た三十代半ばの男。髪をオールバックにしている。もうひとりは紺色のジャンパーを着た二十代前半の男だった。彼らはときどき事務所の中に目をやりながら、立ち話をしている。

 尾崎たちが近づいてくるのに気づいて、ふたりは会話を中断した。スーツの男は鋭い視線を向けて、尾崎と広瀬を値踏みするように見た。こちらが気になっているようだったが、話しかけてくることはなかった。

 ドアを開け、尾崎と広瀬は事務所に入っていく。

 正面に受付のカウンターがあり、その向こうが執務スペースになっている。今、事務所には五人の男女がいた。四人は男性、ひとりは女性だ。みな制服らしい緑色のジャンパーを着ている。

「いらっしゃいませ」

 席を立って、若い女性がカウンターのそばにやってきた。事務員なのだろうが、やや化粧が濃く、唇の赤さが目立つ。

「ちょっとうかがいますが、手島恭介さんという方をご存じですか」尾崎は尋ねた。

「手島さん、ですか。ええと……」

 彼女は体をひねって、うしろの席にいる男性を見た。それから、すぐにまたこちらを向いた。

「どういったご用件でしょうか」

「警察の者です」

 尾崎は警察手帳を呈示する。その途端、室内の空気が張り詰めたように思えた。

 おそらくそれは気のせいではないだろう。事務机にいる男性たちのうち、ふたりは顔を上げて尾崎を見た。残るふたりもこちらを凝視こそしないものの、事務作業をしながら耳を澄ましているのは明らかだ。

 女性が戸惑っているのを見て、中年の男性が近づいてきた。だいぶ髪の薄くなった、五十代と思える人物だ。

「私が承りましょう」男は軽く頭を下げた。

「警視庁の尾崎といいます。責任者の方ですか?」

「営業部長の大堀と申します。……手島さんがどうかしたんですか」

「事件に巻き込まれました」

「……事件、というと?」

「今朝、ご遺体で発見されたんです」

 大堀は眉をひそめた。尾崎から広瀬に視線を移したあと、もう一度尾崎をじっと見つめる。言葉を選ぶ様子で、彼は尋ねてきた。

「彼は……手島さんは、殺害されたんでしょうか」

「そう考えられます」

 身じろぎをしてから、大堀は低い声を出して唸った。信じられない、というふうに首をゆっくり左右に振る。

「いったい何があったんですか」

「すみません、詳しいことはお話しできないんですが、手島さんはこちらの会社と関わりがあったんですよね?」

「ええ。仕事をお願いしていまして……」

 大堀が答えかけたとき、尾崎の背後から鋭い声が飛んだ。

「ぺらぺら喋るな」

 はっとして、尾崎は振り返る。

 先ほど外にいたオールバックの男が、事務所に入ってきていた。紺色のジャンパーを着た男も一緒だ。

 オールバックは大堀を叱責したのだが、尾崎に敵意を向けていることは明らかだった。彼は威嚇するような目でこちらを睨んでいる。

 咳払いをしてから尾崎は尋ねた。

「失礼ですが、あなたは?」

「この会社の関係者ですよ」男は硬い表情のまま言った。「仕事の邪魔をしないでくれ。これから大事な打ち合わせがあるんだ」

「手島恭介さんをご存じですか? 今日、ご遺体で発見されたんですが……」

「知らないな」

「営業部長の大堀さんは知っているようでしたよ」

「大堀は忙しいんだ。よそを当たってくれ」

 男はカウンターの中に入り、大堀の腕をつかんで事務所の奥に向かう。そのままふたりは別室へと消えた。

 残っていたジャンパーの男が尾崎の背中をつついた。

「そういうことだから、帰ってもらえませんかねえ」

 嫌みたっぷりの言い方をして、彼はドアのほうへと顎をしゃくる。

 ここで揉めてもメリットはないだろう。尾崎は軽く息をついてからドアに向かった。

 外に出ると、尾崎はすぐにスマホを取り出した。発信履歴からひとつの番号を選んで架電する。三コール目で応答があった。

「はいはい、どうかしたのかい」

 電話の相手は、西葛西の手島宅を捜索していた佐藤だ。先ほどと変わらず、のんびりした声だった。

「佐藤さんはマル暴関係にも詳しかったですよね?」

「暴力団? ああ、前に何度か捜査で関わったことがある」

「先に確認しておくべきでした。……今、高田馬場の新陽エージェンシーという会社にいるんですが、ここ、マル暴絡みじゃないですか?」

「さっきカレンダーに書いてあった会社か。でも聞いたことのない社名だな」

「営業部長は大堀っていう男なんですが」

「あ……大堀か!」電話の向こうで佐藤が声を上げた。「五十ぐらいの、髪の薄い奴」

「そう、そいつです」

「昔は別の会社にいたよ。もし社名を変えただけだとすれば、そこは野見川組のフロント企業だ」

 やはりそうか、と尾崎は思った。普通の会社を装っているが、新陽エージェンシーは暴力団と繋がりがあり、資金源となっているのだ。柄の悪いオールバックを見かけた時点で、嫌な予感はあった。

「手島さん、いや、手島恭介は運送業でした。自分でバンを持っていたようなんですが、これって……」

「正体が見えたな」佐藤は言った。「クマダ運輸の仕事のほかに、暴力団関係の運び屋をしていた可能性がある。だからバンを持っていたんだろう」
「けっこう大きな荷物も運んでいたんでしょうか」

「ヤクだの拳銃だの、そういうものならバッグで運べるけどな。しかしバンがあればいろいろと便利だ。組員から重宝がられたんじゃないか?」

 何か大きなものを積んで山へ遺棄しに行くことも──。そこまで想像して、尾崎は眉をひそめた。考えれば嫌なことはいくらでも頭に浮かんでくる。

「大堀の関係者を知りませんか。もし佐藤さんの協力者がいたら、一番ありがたいんですが」

「さすがに、そのへんに潜っている協力者はいないなあ。まあ、口の軽そうな奴ならひとり知ってるけど。組の下働きをしている男だ」

「それでかまいません」

 佐藤が教えてくれた男の名前と連絡先を、尾崎は手早くメモした。

「顔写真も送ってやるから、あとでメールを見てくれ」

「助かります。この礼はまたいつか」

「そうだな。期待せずにいるよ」

 佐藤は笑っている。情報を与えてくれた彼に、尾崎は感謝した。こういうときは実に頼りになる先輩だ。

 尾崎が電話を切ると、そばで様子を窺っていた広瀬が怪訝そうにこちらを見た。

「協力者を使うんですか?」

「いや、残念ながらスパイはいないそうだ。だが、ひとり関係者を教えてもらった。この時間は、日暮里の雀荘かパチンコ屋にいるらしい」

 腕時計を見ると、午後二時になるところだった。腹は減るが、今はそれどころではない。尾崎たちは高田馬場駅に向かった。
 
 日暮里駅から歩いて数分の場所にパチンコ店があった。

 大音量に顔をしかめながら、パチンコ台に向かう客の顔を見ていく。スマホに表示させた画像と比べながらチェックするうち、ついに本人を発見した。

「安川さんだね? ちょっと時間をもらえませんか」

 え、と言ってその男──安川丈治は振り返った。ジーンズに茶色のトレーナーというラフな恰好だ。

 安川は尾崎から広瀬に視線を移して「おっ」と言った。ファッションモデルのような女性を見て、彼は急ににやにやし始める。

 尾崎は警察手帳を呈示した。それを目にした途端、安川は舌打ちをした。

「なんだよ、くそ。今日はついてねえなあ」

 もともと玉は出ていなかったようで、声をかけるタイミングは悪くなかったと思える。だが、安川の気分は最低らしかった。

 なんだかんだ文句を言う安川を宥めながら、尾崎は店の外に出た。ようやく周りが静かになり、今まで自分がかなり大声で喋っていたことに気がついた。
「警視庁の尾崎といいます。安川さん、あなた新陽エージェンシーという会社を知っていますよね。野見川組と関係の深い企業だよ」

 安川は少し身構える様子をみせた。その反応から、彼が何かを知っていることは明らかだった。

「そして安川さん、あなたも野見川組と関係がある。組の下働きをしていると聞きました」

「だったら何だよ。ここで俺を逮捕でもするっていうのか?」

「そんなことはしない。ただ、話を聞かせてほしいんだよ。手島恭介さんのことだ」

「手島? あいつがどうかしたのか」

「彼は今朝、遺体になって発見された」

 安川はぎくりとした様子で言葉を呑み込んだ。かなり動揺しているようだ。

 尾崎は声のトーンを落として、ゆっくりと言った。

「手島さんは誰かに殺害されたんだよ」

「なんであいつが……」

「野見川組は新陽エージェンシーを経由して、手島さんに運び屋をやらせていたんじゃないか? その関係で殺害された可能性がある。そうだね?」

「いや、俺に訊かれても……」

 安川は口ごもった。困惑の表情を浮かべているのがわかる。尾崎の勘が正しければ、この男は噓をついてはいない。だが噓をつかないからといって、彼が素直な人間だというわけではなかった。

「手島さんは誰かに恨まれていなかったか? 何かトラブルが起きていたんじゃないのか? なあ安川さん、あなたは何か知っているんだろう?」

 尾崎は質問を繰り返していく。しかし安川はのらりくらりとごまかすばかりだ。

 どうにも埒が明かない。少し厳しく追及するかと尾崎が考えていると、それまで黙っていた広瀬が口を開いた。

「安川さん、このままだとあなたは命を狙われる可能性があります」

「は?」安川は何度かまばたきをした。「どういうことだ」

「警察というのは完璧じゃないんですよ」

「……あんた、何を言ってる?」

「私たちが捜査を続ける中で、あなたという人間が浮上しました。捜査に非協力的であれば、あなたの心証はとても悪くなります。私たちは報告書にそう書きます。捜査本部の幹部たちはそれを読んで、安川という男を徹底的に調べろと指示するでしょう。何人もの捜査員があなたの行動を監視し始める。あなたに接触して何度も話を聞く。そういう場面を野見川組の組員たちが見たら、どう思うでしょうか」

「……どう思うんだ?」

「あなたが警察に情報提供するんじゃないか、と疑うはずです。組の下働きとしてやってきたことを全部話してしまうんじゃないか。組の人間から聞いていたあれやこれやを警察に説明してしまうんじゃないか。その結果、組に捜査の手が入るんじゃないか……。疑心暗鬼という言葉を知っていますよね。本当のことがわからないと、人はどんどん疑い深くなります。あなたが否定すればするほど、こいつは噓をついている、警察のスパイだと組員たちは思うようになる。もう駄目だ。警察に喋る前に消してしまおう、と考えるようになる」

「そんな馬鹿なことがあるかよ」

「いいですか。そのときになって私たちに頼っても、もう遅いんですよ。命を狙われている人間を、警察は守りきれません。だって、二十四時間あなたに張り付いているほど我々は暇ではないですから。せいぜい、パトロールを増やすだけです。そしてパトロールの目が届かないところで、あなたは殺されてしまうんです」

「ちょっと待てよ!」安川は怒鳴った。

 それと同時に「おい広瀬」と尾崎は声を上げた。

 どう考えても広瀬の言動はまともではなかった。今はまだ事情を聞いている段階だ。そんなときに、警察官が相手を脅すようなことを言ってどうするのか。

 広瀬は少し考える表情になった。しばらくして、彼女は言った。

「安川さん。私はあなたを助けたいんですよ。あなたには死んでほしくない。だから今、質問に答えてほしいんです。これはあなたのためなんです」

「おかしいよ。あんた絶対おかしい」安川は首を横に振った。「組の人間に吹き込むんじゃないのか? 俺が裏切ってるとか、そういうことをさ」

「私は警察官です。目の前の殺人事件を解決するために、全力を尽くしたいんです。あなたには、それに協力する義務があります」

「訳がわからねえよ」

「手島さんの死について、何か知っていることや気になることがあれば教えてください。正直にです。今、話してくれればあなたは助かります」

 安川は険しい目で広瀬を睨んだ。数秒そうしていたが、やがて肩を落としてため息をついた。

「組の人間には黙っててくれるよな?」

「もちろんです」

「……手島は郷田裕治って男の弟分だったんだ。昔はふたりでよく一緒に行動してたよ。ところが郷田は、五年前に錦糸町駅の近くで死んじまった。交通事故だった」

「それで?」

「郷田が死んだせいで、手島がかなり変わったって噂があった」

「どう変わったんです?」

「兄貴分がいなくなって自由になれたとか、そんな感じじゃないか? 組員たちがそう話しているのを聞いた。……なあ、もういいだろ。俺が知ってるのはそれだけだ。今後は俺につきまとわないでくれ」

「どういう事故だったか聞いているのか?」

 尾崎が尋ねると、安川は眉をひそめてこちらを睨みつけてきた。

「知らないよ。事故なんだから警察に資料があるだろ? 手抜きをしないで自分で調べろよ」

 不機嫌そうな顔をして、安川はそう言い放った。

※ 次回は、3/22(金)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)


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