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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第9回


 坂本高之の自宅は日本橋人形町にあるという。

 木場から地下鉄東西線に乗り、茅場町へ。そこで日比谷線に乗り換えた。

 人形町というと昔ながらの甘酒横丁などが有名だが、少し歩けばビジネス街もあるし、新しいマンションなど住戸も多い。スマホの地図を見ながら尾崎たちは歩いていく。やがて坂本が住む賃貸マンションが見つかった。

 茶色い外壁なので遠くからでもよくわかる。一階には弁当屋とクリーニング店が入っていて、生活するのに便利そうだ。

 エレベーターで二階に上がる。かごから降りてすぐ目の前、二〇二号室に《坂本》という表札が出ていた。

 インターホンのボタンを押すと、五秒ほどして応答があった。

「はい……」

「朝、お電話した警視庁の尾崎です。少しお時間をいただけますか」

「ああ、お待ちください」

 声の感じからすると、あまり快活な人ではないようだ。もともとそういう性格なのか、それとも今日は機嫌がよくないのか。

 じきにドアが開いて、坂本が顔を出した。

 彼は尾崎を見たあと、うしろにいる広瀬に目をやって、驚いたように眉を上げた。モデルさながらの彼女の訪問が意外だったのだろう。

「お忙しいところ、すみません」尾崎は言った。

 坂本の年齢は三十二歳だとわかっている。身長は広瀬より少し低いから、百六十五センチほどだろうか。理髪店が嫌いなのか、それとも行く暇がないのか、髪が長めでもっさりしていた。色白なのは運動をしないせいだろうか。

 見た感じ、生気があまり感じられない男性だった。

「あの……話って何でしょうか。今日はあと一時間ぐらいで、仕事に出かけなくちゃいけないんですが」

 怪訝そうな顔で坂本は尋ねてくる。声にもハリがない。

「ああ、すみません」尾崎はあえて明るい調子で答えた。「五年前のことについて、少しうかがいたいと思いまして」

「五年前って……あのことですよね。なんで今ごろ?」坂本は眉をひそめる。

 尾崎は共用廊下の左右を気にするような素振りを見せた。

「あまり人に聞かれたくないことなんです。坂本さん、ちょっとお邪魔させてもらえませんか」

 坂本は思案する様子だった。面倒だな、と感じているのがよくわかる。それでも彼は、ひとつ息をついてから顎をしゃくった。

「わかりました。上がってください」

 彼は踵を返した。尾崎と広瀬は靴を脱いで、あとに続く。

 廊下を戻っていく坂本のうしろ姿を見て、尾崎は広瀬に目配せをした。彼女も気づいていたらしく、小さくうなずいている。

 坂本は左脚を引きずっていた。

 尾崎と広瀬はダイニングキッチンに通された。テーブルを挟んで、尾崎たちは坂本と向かい合う。

「あいにくですけど、お茶は出せませんよ」坂本は言った。「僕はお茶もコーヒーも飲まない人間なんです」

「どうか気になさらないでください」尾崎は答えた。

 坂本は椅子の背もたれに体を預けた。気が進まないという内心の思いを、目に見える形で表したのだろう。

「さっき、私の脚を見ていたでしょう」

 急に坂本がそう尋ねてきたので、尾崎は戸惑った。坂本にとってそれはデリケートな話題だろう。しかし本人が切り出してきたのだから、下手にごまかしてはまずいという気がする。

「……まだ痛みはあるんですか?」

 前置きを飛ばして、尾崎は一歩踏み込んだ質問をした。そうすることで、よけいな説明を省き、本題に入ろうとしたのだ。

「痛みはありません。でもね、この傷痕を見ると不思議な気持ちになるんですよ」

「不思議な気持ち?」

「なんで僕の脚にだけこんな傷痕があるんだろう。どうしてこんな目に遭わなくちゃいけなかったんだろう。そういう疑問が湧いてきます。刑事さん……尾崎さんでしたっけ。あなたは運命というものを信じますか?」

「……信じてはいませんが、そういうものはあるんじゃないかと思っています」

「あらかじめそう決まっていたのであれば、仕方のないことです。だけど、ほんの一分ですよ。あと一分、僕が店を出るのが早いか、あるいは遅ければ、郷田と会わずに済んだんです。そうであればトラブルは起こらなかったし、僕が脚を刺されることもなかった。悔やんでも悔やみきれません」

「本当に、お気の毒なことだと思います」

「お気の毒、ですか。……まあ、そうでしょうね。あなたたちには関係ないことだし」

 坂本は自嘲するような調子で言った。それから、わざとらしくため息をついた。

「これが僕の運命だというなら、受け入れなくちゃいけないのかもしれない。でも、難しいんです。僕はいまだに納得できません。怒りをぶつける先がないんです。おわかりですよね?」

「ええ。郷田さん──いえ、郷田裕治は事故で亡くなってしまいましたから」

「くそ、あの男!」突然、坂本は声を荒らげた。「死ぬのは当然ですよ。裁判をやって、何年か刑務所に行っても、どうせすぐ出てきてしまうんでしょう? だから死んでくれてよかった。……ですが、あいつが反省したり謝罪したりする姿はまったく見られませんでした。せめて事故のとき、あいつが苦しむ様子でも見られれば、僕は気が晴れたかもしれないのに」

 宥めるべきか、たしなめるべきか、それとも慰めるべきなのか。尾崎には判断ができなかった。ただ、ひとつ言えるのは、坂本の話が強い毒のような憎しみに満ちていることだ。これだけきつい言葉を並べられては、素直に同情することもできない。

 坂本との距離をはかりかねていると、広瀬が口を開いた。

「発言してもよろしいですか?」

 一瞬、嫌な予感がした。彼女はまた、警察官としてふさわしくないことを言い出すのではないか。尾崎は広瀬にささやきかける。

「発言には注意してくれよ」

「わかりました」

 うなずいてから、広瀬は背筋を伸ばして坂本を凝視した。

「郷田裕治はすでに死亡しています。今から郷田に復讐するのは不可能です。それはおわかりですよね?」

「当たり前のことだ。わかってますよ」

「何かできるのなら、あれこれ知恵を絞るのもいいでしょう。しかし、もはや郷田に復讐はできないのですから、考えるだけ無駄だと思います」

 尾崎は一抹の不安を感じて、横から広瀬を見つめた。こちらの心配をよそに、彼女はそのまま話を続ける。

「あなたは、ご自分のために時間を使うべきです。有効に、そして効率的に」

 坂本の顔に不満げな表情が浮かんだ。彼が苛立っていることは明らかだ。
「どうしろって言うんですか」

「ひとつ情報があります。昨日、郷田の弟分だった男性の他殺体が発見されました」

「……え?」

 さすがにこの話には驚いたようだ。坂本は上体を前に傾け、身を乗り出すようにして広瀬を見つめた。広瀬は彼に問いかける。

「郷田が反社会的な勢力と関係していたことはご存じですよね?」

「ええ、当時、刑事さんから聞きました」

「今回、弟分の男性が殺害されたことは、兄貴分の郷田と関係があるのかもしれません。恨まれる理由はいろいろありますからね。それで今日、私たちはここに来ました。郷田の起こした事件について知りたいんです。坂本さんから五年前の話をうかがいたい、ということです」

 坂本は疑うような目で広瀬を見ている。それを受けて、彼女はさらに話を続けた。

「あなたの証言が、郷田という男の罪を浮き彫りにするんです。そうすれば捜査が進展します」

「待ってください。僕が郷田に会ったのはあの一回だけですよ。時間にしてほんの三分か四分です。あいつのことなんか何もわからない」

「ごく短い間だったとしても犯罪の現場ですから、郷田の本性が出たはずです。断片的でもかまわないので教えてください。私たちは郷田裕治という人間について、できるだけ多くの情報を集めたいんです。どうですか、坂本さん。郷田を丸裸にしたいとは思いませんか」

「それは……郷田のことを調べ直すということですか」

「ええ。あらためて情報を集めていけば、結果として郷田裕治の恥ずべき姿が見えてくるはずです。あなたはそれを見て、溜飲を下げることができます」

 広瀬の話が、またおかしな方向へ進んでいきそうに思えた。尾崎は彼女に向かって、待て、というジェスチャーを送る。

 だがそのとき、向かいに座った坂本が身じろぎをした。彼は真剣な表情を浮かべている。

「わかりました」

 坂本がそう言ったので、尾崎は驚いてしまった。

「死者を鞭打つようなことになったら面白いですね」坂本は冷たい口調で言った。「あいつのせいで僕はこんな体になってしまった。許せない気持ちは今もあります。……いいですよ。僕はあなた方に協力しましょう。あの男を辱めてやってください」

 歪な気持ちに、歪な応援をして火を点ける。広瀬はそんなやり方を得意としているのだろうか。警察官としてこれを許していいものか、と尾崎は考えた。自分としては、答えはノーだ。

 だがその一方で、こういうやり方をする刑事がほかにもいることを思い出した。記憶をたどれば五人や十人は出てくる。そして、そういう捜査員のほうが、より多くの成果を挙げているのだ。

「トラブルがあった夜のことを、詳しく話していただけますか?」

 広瀬は相手の目を覗き込む。

 こくりとうなずいて、坂本は当日夜の状況を説明し始めた。



 雑貨店のそばに自販機コーナーがあったので、少し休憩することにした。

 缶コーヒーを二本買って、一本を広瀬のほうに差し出す。すると彼女は首を横に振って、財布から小銭を取り出した。

「尾崎係長、これを……」

「いや、かまわないよ。俺が出しておく」

「ですが、昨日も昼食をご馳走になりました」

 まあいいから、と説得して尾崎は缶コーヒーを彼女に手渡した。

「ありがとうございます。では、いただきます」

 自販機コーナーには青く塗装されたベンチがある。ふたり並んで腰掛けた。

 コーヒーを一口飲んでから、尾崎はポケットを探った。捜査用のメモ帳を取り出し、ページをめくる。

「結局、成果というほどのものはなかったな……」

「坂本さんの証言のことですね」

 こちらを向いて広瀬が言った。彼女はもう自分のコーヒーを飲み干してしまったようだ。

 尾崎はメモした内容を、指先でたどり始めた。

「今から五年前、三月六日の夜に事件は起こった……」

 すでに捜査資料で事件の概要は把握してある。だがそこにはっきり書かれていないことを、尾崎は坂本から聞きたかった。一番気になっていたのはトラブル発生に至った経緯だ。

「その日、坂本さんは午後九時ごろからスペインバルで飲食をしていた。カウンター席で店のオーナーやアルバイトの女性と雑談しながら、ビールやワインを飲んだ。仕事で嫌なことがあって、少し飲みすぎたと本人は話していたな」

「当時、坂本さんは機械部品メーカーの工場に勤めていたんですよね」

 そうだ、と尾崎はうなずいた。事件で脚を負傷したせいで、坂本は工場勤務ができなくなった。別の部署に異動したが、そこには馴染めず、結局退職することになったという。現在は派遣社員として、コールセンターに勤めているそうだ。

「二十三時過ぎ、彼は店を出て駅に向かった。かなり飲んだから、いい気分になっていたはずだ。自分では意識していなかっただろうが、ふらついていた可能性がある。しばらく路地を歩いているうち、彼はたまたまそこにいた男とぶつかった」

「さすがに、細かい状況までは覚えていないということでしたが……」

「酔っ払い同士の喧嘩だ。普通なら、少し殴り合って終わりだろう。しかしこのときは事情が違った。郷田がナイフを取り出したんだ。坂本さんはまずいと感じたが、もう遅かった。左脚を深く刺され、彼は悲鳴を上げた。警察官がやってきたのを見て、郷田は逃走した。……坂本さんが見たのはここまでだ」

 そのあと郷田は無理やり道路を横断しようとして、車に撥ねられて死亡した。広瀬は自業自得だと厳しいことを言ったが、たしかに因果応報という印象はある。

 警察の捜査には支障が出た。郷田が死亡してしまったせいで、坂本への傷害行為を詳しく調べることができなくなったのだ。それ以前の多くの犯罪についても、取調べができなくなってしまった。

 広瀬はバッグから資料を取り出した。

 そこには郷田裕治の写真が載っている。記されたデータによると身長百七十八センチ、体重は約九十キロと、がっちりした体格をしていた。髪は角刈りで、一見柔道の選手か何かのように感じられる。目が細く、眉が薄くて冷たい雰囲気があった。

「職務質問の対象になりそうなタイプですね」広瀬が言った。

「人を外見で判断するのはよくない。しかしだ、深夜この男がひとけのない道を歩いていたら、職質をかけたくなりそうだな」

「犯罪を重ねた人間は、独特の雰囲気をまとっています」広瀬は写真を見つめた。「この男にはそれが感じられます」

「さっき会った坂本さんは身長百六十五センチというところだろう。自分より一回り以上も大きくて、目つきも鋭い郷田には、恐怖を感じたかもしれない」

「体がぶつかってトラブルになったということでしたが……」

「ぶつかって、なんだおまえ、とか言いながら相手をよく見る。すると、そこにいたのは郷田裕治だ。これはヤバい、と坂本さんは思ったんじゃないだろうか。怒りくるった郷田はナイフを振り回し、坂本さんは逃げる間もなかった、というところだろう」

「坂本さんには気の毒ですが、危険を察知する能力が低かったとしか思えませんね」

 そうつぶやいて、広瀬は資料をバッグの中に戻す。尾崎はコーヒーを飲み干した。

「まあ、そうだな。相手が郷田だとしたら俺はすぐに逃げ出すよ」

「職質するんじゃなかったんですか?」

「警察官としてはそうだ。だが自分がただの酔っ払いなら、そもそもこんな奴には近づかないよう気をつける」

 ベンチから立って、尾崎はコーヒーの缶をごみ箱に入れた。広瀬もそれにならう。

 さて、と尾崎が口を開いたとき、広瀬が「ああ、すみません」と言った。彼女はバッグからスマホを取り出し、液晶画面を確認する。

「緊急の連絡が入ってしまって……。よろしいですか?」

 わかった、と尾崎はうなずいた。

 尾崎をその場に残して、広瀬は足早に五メートルほど移動した。口元を押さえるようにして小声で通話を始める。

 耳を澄ましていると、「何かわかりましたか?」とか「その件は継続して」とか、いくつかの言葉が聞き取れた。まだ引き継ぎを終えていない、過去の事件のことだろうか。それとも、深川署に来てから尾崎の知らない捜査に携わっていたのか。

 電話を切ってこちらへ戻ってきた広瀬に、尾崎は問いかけた。

「捜査関係の電話か?」

「そうですね。ちょっと情報をもらったもので」

「俺も知っておいたほうがいい話なら、詳しく聞かせてもらうが……」

「いえ、大丈夫です。気にしないでください」

 広瀬は表情を変えずに言う。平静を装っているようだが、早くこの話を切り上げてしまいたいという気持ちが伝わってきた。

 どうも不自然な態度だった。彼女は何か隠しているのではないだろうか。そういえば、昨夜、広瀬が深夜の道を歩いていたことも気になる。

 尾崎はあらたまった調子で話しかけた。

「言わないようにしようと思っていたんだが……君は昨夜、どこかへ出かけたよな」

 この質問は予想外だったようだ。彼女はしばらく口を閉ざしていたが、やがてこう答えた。

「買い物をしたかったんです」

「弁当か何かか? しかしコンビニなら木場駅のほうにいくつもある。それなのに北へ向かったのはなぜだ」

「……そちらのコンビニに行きたかったんです」

「わざわざ?」

「ええ、そうです」

 それ以上、広瀬は詳しいことを話そうとしない。尾崎としても彼女の行動を縛るわけにはいかないから、追及はここで終わらせるしかなかった。

 ──やりづらいな。

 昨日から感じていたことだが、ここにきてストレスが高まった。彼女は何かを隠している。それはわかるのだが、詳細を聞き出すのは難しそうだ。

 釈然としない思いが、尾崎の中で膨らみつつあった。

※ 次回は、4/5(金)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)


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