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北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第20回

第9峰『空也十番勝負』其の弐


〝十番〟と数を限定したのは、書き過ぎ禁止令だった⁉


 剣術小説のタイトルに十番勝負とついていたら、読者が想像するのは巻ごとに強敵が現れ、迫りくるピンチをしのいで相手を倒すパターンではないだろうか。流派の違いで闘い方を変えたり、相手の得意技に一度は傷を負いながらもかろうじて勝ちを収め、つぎの強敵を求めて旅を続けていく。そして、最終巻で最強の相手にたどりつき10番勝負が成就する筋書きが王道。連作小説としてまとまりやすいし、読者も読みやすいように思われる。

 しかしながら、本作は「十番勝負」を名乗りつつも、強敵をひとりずつ倒していく基本フォーマットを使っておらず、いま読まされているのが何番目の勝負なのかわからないような状態で進んでいく。闘う相手も、空也が望んで対戦するというより話の成り行きで決まるため流動的だ。毎回のように命がけというのも武者修行の域を超えている。これらのことを考え合わせると、まさかの結論が浮上してくる。

 そもそも作者には、基本フォーマットを使って手堅く物語をまとめる気がなかったのではないか。なぜなら……。

・目標がはっきりしない


 一人前の剣士になるため武者修行に出たい気持ちが先行し、誰と剣を交えたいとか、どの流派を学びたいとか(示現流だけはあったが)、具体的な修行プランに基づく旅ではないのである。

・修行の終わり方が読者に見えない


 腕を磨くことができたら、最後に誰と闘って修行の旅を終えたいかを空也は考えていないのだ。期間も未定で、気が済むまでということなので、帰りを待つ母のおこんをやきもきさせてしまう(なんと、4年半もかかる)。読者に伝えられるのは、空也が自分が生まれた姥捨ての郷で修行の仕上げをしたがっているという情報だけである。

・同時進行する要素が多すぎる


 強敵を倒すミッションをクリアして次へ向かう構成はシンプルで読みやすいはずなのに、本作では追ってくる薩摩剣士が次の相手になるとは限らず、行く先々で別のトラブルに空也が巻き込まれ、雪だるま式に話が大きくなってくる。作者の狙いは、人として、剣士としての成長ぶりを描くことで、単なる剣術アクションに終わらせる気は毛頭ないようだ。

 それなのに、どうして「十番勝負」をタイトルにしたのか。読者が〝空也新山”を登りやすいように、10巻かそこらで完結する作品ですよと呼びかけたいのだろうか。

 私はこのタイトル、作者が自分自身に向けた縛りだったと考えている。10番勝負までできっちり物語にケリをつけることを自分自身に課したのだ。前出の〈あとがき〉にもあったように、作者は年齢的に長大な物語を書くことに不安を感じている。職人的作家を自負する作者にとって、体調の問題などで完結させられないのは読者への不義理。どうすればリスクを少なくできるかを考え、書き過ぎ防止策として「十番勝負」の採用に踏み切った……。

 だからここには葛藤がある。結末を決めずに書き始め、作者に命を吹き込まれた登場人物が自在に動き出すことでストーリーを膨らませていく得意の手法を自ら封じた作家が、いかにして10番限定の闘いで空也の成長を描き切るか知恵を絞っているのだ。

「勝負」「恋愛」「家族」を三本柱として、それ以外に伸びようとする枝葉の部分は、心を鬼にしてカットしなければならない。それでも、ついつい書いてしまう作家の性。いや、これ以上はやめておこうと衝動を抑え込むプロ意識でなんとか守られていく巻ごとの節目。物語を先に進めるためだけのつなぎ役や尻すぼみに出番の減る登場人物も現れてしまうが、とにかく前へ、前へ。

 将棋であれば、序盤は陣形を整えつつ攻撃の型を作って行くところだ。しかし、この作品は基本フォーマットに頼ろうとせず、初っ端から空也を上位ランクの剣士と対戦させてしまった。別の言い方をすると、強い1番手に勝ってしまったために2番手以降の相手が難しくなってしまった。しかも、16歳で修行に出た空也なのに薩摩を離れたときは18歳。1番勝負を終えるのに2年の歳月を費やしている。

 おもしろいことになってきた。ひねくれた読者である私には、今読んでいる箇所で唸りを上げている楽しさと、この調子でまとまるのかという綱渡り感覚が同居することになって、読破スピードが自然に上がっていくのだった。 

あやうく第5巻で終わるところだった!


 薩摩を脱出した空也は道場で稽古に励んだり、追手をかわしたりしながら肥後国(熊本県)の人吉城下、五箇荘を経て8代から船で五島列島の福江島(長崎県)へと移動。薩摩の追手だけではなく唐人武闘家と闘ったりする。

 巻ごとに闘いの場所や相手を変えれば登場人物の入れ替えも無理なくできて、読者にマンネリを感じる暇を与えずに済む。唐人の武闘家を出してきたのも、独特の武器を使う唐人を相手にすることで読者の意識を薩摩からそらす効果がある。そのせいで、相手がそれほど強そうに思えないことにも意味が出てきた。

 空也にとってこの相手は通過点。「十番勝負」となっていても、相手の力量がどんどん上がっていくのではないと理解できる。ゆったりしたテンポで進む大長編シリーズに慣れている佐伯時代小説のファンなら、唐人武闘家との対決にいつもの荒唐無稽さを感じて、むしろホッとするのではないだろうか。

 全10巻での完結を心に決めてシリーズを始めた作者は序盤を乗り切って調子を上げてきた。そして、読者は重い序盤に戸惑いつつ、いつもの自由自在な筋運びが訪れるのを待っていた。両者の事情が交差する第3巻あたりから、本作は視界が開けるように読みやすくなる。江戸の家族とも連絡がつき、点と点が結びついて線になったおかげで『居眠り磐音 江戸双紙』の続編らしくなってきた。

 中盤にかけての読み心地は、勝負という面ではつなぎの意味が大きいけれど、エンタメ小説を読む楽しみをたっぷり味わえて天国気分だ。空也も〝修行の道半ば”の気持ちなのか、話の流れに抗うことなく機会があれば剣術に励み、地域の剣士たちとの交流を惜しまない。

 気がかりといえば中盤を過ぎてもラスボスが現れないことだ。相変わらず薩摩は空也を斬るのをあきらめていないので、執拗に空也を狙う薩摩藩が繰り出す伝説級の大物との闘いが修行の仕上げになるのか。

 いや、それはない……。

 佐伯中毒者であればあるほど〝ラスボス=薩摩の達人”を打ち消すはずだ。そういう計画があって書いているなら、序盤で伏線が張られていてしかるべきだが、大物の名は出ていなかった。いまさら取ってつけたように大物を送り込んでくるとは考えにくい。そもそも、佐伯泰英は結末を決めずに書き始めると公言しているので、本作だけ綿密な青写真を作るとは考えにくい。つまり、最後の相手は、空也も、読者も、ひょっとしたら作者さえも、まだ知らない相手である可能性が高いのだ。

 お楽しみはこれからだ! そう叫びたくなる十番勝負の行く末なのである。

 そんな私が仰天したのは、第1巻以来の上下巻となった第5巻『未だ行ならず』を読了し、「あとがき」に目を通したときである。冒頭にこう書かれていたのだ。

〈「空也十番勝負 青春篇」を五番勝負の『未だ行ならず』で幕を閉じようと思う。

 理由はいくつかある。

 まず西国での武者修行は、当初筆者が考えた以上に長くなり、五番勝負七冊でも決着しそうにないことだ。〉

 私の手元にある『空也十番勝負』は決定版と銘打たれたものだが、最初の刊行時は『空也十番勝負 青春篇』というタイトルだったのである。たしかに、いつになったら九州の外に行くのだろうと思ってはいたが……。

 ここでいったん中断した作者は、本編である『居眠り磐音』の決定版を完結させた。そして、その作業を行う中で、磐音シリーズは『空也十番勝負』と合わせてひとつの物語になると思い至り、6番勝負以降を書こうと決意したことを、「『空也十番勝負』再開に際しての雑感」で記している。

『空也十番勝負』が中途半端なままで終わらず、中断から3年後に再開されたことを我々は喜ばなければならない。なんとしても完結させる意気込みで気力を振り絞るように書かれた6番勝負以降、この物語は得体のしれないパワーを読者にぶつけてくるからだ。

激闘と流血の果てに武者修行の旅、完結!


 シリーズ再開に伴う大きな変化は、薩摩藩の影がなんとなく消えたことである。空也は九州を出て長州藩(山口県)に移動。ここしかないタイミングだった。それでは物語の整合性がつかないなどと理屈を述べてはならない。青春篇は終わり、後半が始まった。さらば薩摩藩なのである。

 さっそく毛利家のお家騒動に巻き込まれる空也だが、ラスボスはまだ現れず、空也をその気にさせる剣術も登場しない。佐伯泰英の剛腕をもってしても、薩摩藩と示現流ほど強敵の座にふさわしい藩と剣術を手品のように出すことはできないのだ。

 だとすれば、最後の相手は個人しかいない。地方に根を下ろし過去に磐音との因縁があった剣の達人とか、空也に劣らぬ才能を持つ若い剣士である。
 作者が選んだのは後者。この判断が終盤を盛り上げ、佐伯時代小説でも屈指の名勝負を実現させることになる。

 第8巻から登場してくるその若武者は、それまでのストーリーとは関係ないところから唐突に現れたかと思うと、しきりに空也を意識した行動を取り始める。完結を目指してシリーズ再開を決めた作者が、10番目の相手として若武者に白羽の矢を立てたことは、読者全員に丸わかりだ。苗字が佐伯なのである。こんなにわかりやすい大本命もないだろう。

 その男、佐伯彦次郎は、空也と真逆のキャラクターを持っている。

 共通点は幼少期から才能を発揮して天才剣士の片鱗を見せていたことくらい。地元で問題ばかり起こし、付き添いのオヤジを連れて道場破りの旅に出ている。その剣は冷酷で、人を斬ることを何とも思わない。金がなくなれば各地の道場を訪れて金を要求し、言うことを聞かなければ躊躇なく斬り殺す。旅の目的も修行ではなく、毎日が退屈で、手ごたえのある相手を求めてのものだ。

 空也の存在を知った彦次郎は、自分の求める相手を見つけたと張り切り、足跡を追う。強者に勝って満足したいのか、すっきりと人生を終わらせてくれる相手を探しているのか、真意は明かされないまま距離を詰めてくる。当初は縁もゆかりもない彦次郎との勝負に消極的だった空也も、各地でその男の噂を耳にするにつけ闘いを避けられない相手だと腹をくくるようになり……。

 大まかな流れをここに記したのは、それを知って読んでも支障がないと思うからだ。佐伯の名字をわざわざ与えただけあって、彦次郎のキャラクターは強烈。濃厚に漂う虚無感には、受けるべき愛情を注がれずに育った者の哀しみがにじむ。彦次郎を描けば描くほど、空也の明朗さや誠実さが周囲からの愛情で出来上がっていることがわかってくるようなのだ。

 ふたりの勝負が、どこでどのように行われるかは書かないでおこう。居眠り磐音シリーズをライフワークと位置付ける佐伯泰英が、未完のまま終わらせてたまるかと書き継いで迎えるラストである。全力で文章の束がやってくる。そのとき読者は、示現流も唐人武闘家も記憶の彼方となり、すぅっと肩の荷が下りたような読後感を味わうことになるだろう。

 読後、緊張をほどきながら大きく息を吐いた私は、添えられた「あとがき」を気楽に読み始めた。最近の佐伯さんは、自身の老いに触れることが多く、ここでもそんな話題である。衰えゆく体力で、とにもかくにも完結。ご苦労様でしたと頭の下がる思いで読み進む私の目に、信じがたい文章が飛び込んできた。それを記して本稿の締めくくりとしたい。

〈最終巻『奔れ、空也』脱稿に「空也十番勝負」完結と己に言い聞かせているが、

「終わった気がしないのはなぜだろうか」

 作者81歳に差し掛かり、なんとしても坂崎磐音の晩年を描きたい希求に苛まれているからだ。つまり青春時代の「空也十番勝負」は完結しても、即『磐音残日録』に手を出せないのは、磐音と空也の歳だ。(中略)

 文庫書下ろし時代小説作家の都合のいい話を読まされる読者諸氏にひたすらお詫びする。どうか、引き続き磐音と空也父子の「壮年若年篇」というべき物語としばらくお付き合いください。〉

 衝撃の続投宣言に、まだ先があったかと喜びがこみあげてくるのは私だけではないだろう。磐音と空也が道場で、そより、ふわりと剣を交える場面を楽しみに待ちたい。

※ 次回は、9/28(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)