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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第14回




 講堂に集まった捜査員たちは、みな緊張した表情を浮かべている。

 まもなく午後八時、夜の会議が始まる時間だ。捜査員たちは席に着き、それぞれ資料を広げたり、メモ帳の記録を確認したりしている。

 いいネタを仕入れてきた者は、その情報を効果的に報告し、幹部から評価されたいと思っているはずだ。一方、あまりいい情報を得られなかった者は、会議でどのように釈明するか、いかにして叱責から逃れるかを真剣に考えているかもしれない。

 尾崎も新米のころ、夜の捜査会議が嫌で仕方がなかったことがある。

 一日中歩き回り、何十軒という関係先で話を聞いても、たいした情報が出てこない。これは当たりだと思っても、自分の勘違いや早とちりで、まったく意味のない報告をしてしまう。会議で幹部に注意され、もっと真剣にやれと発破をかけられる。何日も成果を挙げられずにいると、何のために自分はここにいるのかという疑問が湧いてくる。昼間の捜査にも身が入らず、会議の時間が近づくと憂鬱になる、ということがよくあった。

 ──さすがに最近は、そんなこともなくなっていたんだが……。

 自分の中に慢心があったというべきか。あるいは成果を焦りすぎたのか。いずれにせよ、今日の会議は久々に気分が重い。

「どうした、冴えない顔をして」

 声をかけられ、尾崎は資料を閉じて相手を見上げた。尾崎の席のそばを、菊池班長が通りかかったところだった。

 楕円形の眼鏡のフレームを押し上げ、菊池はにやりと笑った。

「何かチョンボでもあったのか?」

「チョンボというか、何というか……」尾崎は軽くため息をつく。「ちょっと、しくじった感じでして」

「尾崎にしては珍しいじゃないか」

「少し焦りました。準備不足だったんだと思います」

「誰にだってミスはある。そう落ち込むことはないと思うぞ。……まあ、隣の班の俺が言うことじゃないかもしれないけど」

「中堅の捜査員として、しっかりしなくちゃいけないんですが……」

「俺に言わせれば、おまえなんてまだまだひよっこだよ」

 菊池は尾崎の肩をぽんと叩く。「また、あとでな」と言って、彼は自分の席に戻っていった。

 別の班だというのに、わざわざ励ましに来てくれたようだ。こういうところに菊池の人柄が出ている。常に、後輩や部下をよく見ている人なのだ。感謝しなければ、と尾崎は思った。

 八時を二分ほど過ぎたが、会議は始まらなかった。

 妙だな、と尾崎は思った。隣の広瀬も腕時計を気にしているようだ。

 幹部席に目を向けると、捜査一課の管理官と五係の片岡係長、深川署の副署長の三人が、額を寄せ合って話し込んでいた。会議の直前に何かあったのだろうか。

 しばらくして話は終わったらしい。片岡係長が資料を持ってホワイトボードのそばへ移動した。ひとつ咳払いをしてから、彼は口を開いた。

「少し遅れたが、捜査会議を始める。……まず、私のほうから連絡することがある。みんなも知っていると思うが、本日午前中、北区赤羽で男性の遺体が発見された。殺害の方法や遺体の状況、匿名のメールなどから、三好事件と同じ犯人によるものだと断定された。つまりこの『赤羽事件』は、同一人物による第二の事件ということになる」

 捜査員たちは険しい顔で黙り込んでいる。

 今朝までは、三好事件の犯人を一刻も早く捕らえるのだと、みな意気込んでいたはずだ。猟奇的な事件だが、遺留品もあるし、手がかりはつかめると考えていた刑事が多かっただろう。だが捜査二日目になって次の事件が起こってしまった。犯人の動きが早すぎて捜査が追いつかない、と不安視する者もいるのではないか。

「すでに一部の捜査員には、第二の事件を調べてもらっている。しかし人数が足りないのは明らかだ。上に相談したところ、先ほど回答があって、明日からこの捜査本部は増員されることになった。捜査の分担も変更になるので、そのつもりでいてほしい」

 そういうことか、と尾崎は納得した。増員の情報が届いたため、片岡係長たちは急ぎの相談をしていたのだ。

 連絡事項を伝え終わると、片岡はみなを見回した。それから捜査員を指名して、今日の活動について報告させていった。

 第二の事件が起こったことは、捜査本部の幹部たちにとっても完全に予想外だったはずだ。また、遺体状況の異様さ、残酷さもあって、警視庁の上層部もこの捜査を重視しているだろう。増員はありがたいことだが、片岡係長たちは今、大きなプレッシャーを感じているに違いない。

 その証拠に、片岡は捜査員たちの報告をそのまま受け入れたりはしなかった。話を聞いたあと細かい質問を行い、曖昧な部分を残すまいとしているようだった。各組への質問時間が長くなるから、全体の進行も遅くなる。それでも片岡は、時間を気にしようとはしなかった。

 やがて尾崎・広瀬組が指名された。尾崎はメモ帳を持って立ち上がる。

「鑑取り班の尾崎です。本日、我々の組はまず人形町へ向かい、五年前に死亡した郷田裕治が怪我を負わせた坂本高之という男性に会って……」

「ちょっと待ってくれ」片岡が口を挟んだ。「昨日報告を受けたが、郷田裕治というのはたしか、手島恭介の兄貴分だな?」

「そうです。その郷田が死亡したのが五年前です。錦糸町事件と呼ぶべきかと思いますが、郷田は路上でのトラブルで坂本高之さんを刺しています。そのあと逃走中に交通事故死しました」

「よくわからないんだが……その坂本という男は、今回の手島殺しと何か関係がありそうなのか?」

「今のところ不明です。不明なので、詳細を明らかにしようと考えました」

「気になることがあるのか」

「それはですね……」

 昼間カフェで広瀬に披露した推測を、尾崎はあらためてみなの前で話した。一見無関係なようだが、坂本は今回の事件に繋がっているかもしれない。そのことを丁寧に説明したつもりだったが、片岡にはぴんとこないようだった。

「坂本高之は脚が悪いんだろう? そんな男に犯行が可能なのか」片岡は広瀬と同じ疑問を口にした。「仮に共犯者がいたとしても、第二の事件の動機がわからない。坂本犯人説には無理がある」

 はっきりそう言われてしまった。もう少し食い下がろうかと思ったが、こちらの意見は分が悪い。片岡をはじめ、多くの捜査員を説得するための材料が手元にないのだ。

 尾崎は報告を続けた。

 白根健太郎が新陽エージェンシーと繋がっていた可能性に思い至り、高田馬場の事務所を訪ねたことを話すと、片岡は眉をひそめた。

「それはやりすぎだろう。どうして裏を取ろうとしなかった?」

「申し訳ありません。早く手がかりをつかみたいという焦りがありました」

「俺を落胆させないでくれ。今後はもう少し注意深く行動しろ」

「わかりました」

 報告を終えて尾崎は一礼した。元どおり椅子に腰掛け、隣の様子を窺う。

 広瀬にはこれといった反応がみられなかった。尾崎を慰めようとするわけでもないし、かといって責めようとする気配もない。同じ組なのだから無関心なはずはないのだが、表面上は何も変化がなかった。

 ──まあ、彼女はそういう性格なんだろうな。

 おそらく広瀬は、尾崎を軽視するようなことはしないし、逆に気づかいを見せるようなこともしない。それが理解できていれば、こちらも変に気をつかわずに済むというものだ。

 捜査員たちからの報告がすべて終わると、片岡は重々しい口調で言った。

「残酷な事件を起こす猟奇殺人犯を、我々はすぐにも捕らえなければならん。明日から応援のメンバーが参加するが、人数が増えるからといって決して油断はしないでもらいたい。君たちひとりひとりの成果を積み上げてこそ、本件の捜査は進展する。小さな手がかりも見逃さず、情報収集を続けてくれ。以上だ」

 起立、礼の号令のあと、捜査会議は終了となった。
 
 署の一階ロビーの隅で、尾崎はベンチに腰掛けた。

 免許証の更新やら車庫証明の手続きやら、昼間は多くの一般市民で混み合っている場所だ。しかし夜も遅くなった今、ロビーには数名の人間しかいない。先ほど管内で何か軽犯罪があったらしく、その関係で署員が立ち話をしているのが見える。

 尾崎は壁のほうを向き、掲示されたポスターを見ながらひとり考え込んだ。頭にあるのは先ほどの捜査会議のことだ。

 片岡係長から厳しく叱責されたわけではない。だが「俺を落胆させないでくれ」という言葉を、尾崎はずっと引きずっていた。新米の刑事ではないのだから、しっかりやってくれ。期待を裏切らないでくれ。片岡はそう言いたかったのだろう。

 まったくそのとおりだ、と尾崎は思った。いったい俺は何をしていたんだ、という後悔がある。片岡にも言ったが、やはり自分は焦っていたのだ。明らかに準備不足のまま、新陽エージェンシーに乗り込んでいってしまった。

 普段の自分なら段取りを考え、用意周到に行動していたはずだ。それができなかったのは、この事件がひどく猟奇的であり、犯行現場の状況があまりに異様だったからだ。今まで対処したことのない凶悪犯罪を前にして、尾崎はいつになく緊張していた。気合いを入れすぎていたのかもしれない。つまり浮き足立っていたのだ。

 あるいは、と尾崎は考えた。広瀬を意識しすぎたために、自分を見失っていたような気もする。

 広瀬の顔が頭に浮かんできた。一見、モデルかタレントかと思ってしまうような、整った容姿の持ち主だ。だがこの二日間、尾崎は彼女の特異な言動に振り回されてきた。活動のペースを乱され、それを修正できないままここまで来てしまった。

 空気を読まず、何でも口に出してしまうこと。しかし自己主張が強いわけではなく、上司や先輩の命令を守ろうとすること。この矛盾するような特徴を同時に見せる彼女を、尾崎は当初扱いかねていた。だが今日になって、ようやくコントロールできそうな手応えを感じたのだ。そこで自分は前のめりになってしまったのかもしれない。

 あれこれ考えているうち、苛立ちが募ってきた。広瀬のせいで自分本来の力が出せず、結果としてあんな失態を演じてしまったのではないか。もっと素直で出来のいい刑事と組んでいれば、成果を挙げられたのではないか。あの広瀬という女性は、自分にとって疫病神ではないのか。

 そこまで考えて、尾崎はため息をついた。

 ──みっともない。こんなものはただの八つ当たりだ。

 腕時計を見ると、午前零時二十分になるところだった。ずいぶん遅くなってしまった。コンビニで弁当を買ってこようと思い、尾崎はベンチから立ち上がる。

 署の玄関のほうへ歩きだすと、前方に見慣れたうしろ姿があった。広瀬だ。尾崎は眉をひそめた。

 彼女は玄関を出て左、北のほうへ歩いていく。昨夜と同じ行動だった。そちらの方向にあるコンビニで買い物をしたかった、と彼女は説明していた。今夜もその店に行くのだろうか。

 広瀬がどこで買い物をしようと、周りの人間には関係ないことだった。上司や先輩であっても、個人の買い物袋を覗き込むような真似はすべきでないだろう。だが今、尾崎は広瀬の行き先が気になって仕方がなかった。彼女の秘密を暴きたいとか、そんな考えはひとつもない。しかしこれが不審な行動であることは間違いなかった。部下が深夜に出歩くのはなぜなのか、その理由が知りたかった。

 尾崎は広瀬のあとを追った。

 夜の三ツ目通りにひとけはないから、普通に歩けば目立ってしまう。だが、幸い歩道には街路樹が多かった。身を隠しながら、彼女を尾行することができた。

 右手に広大な木場公園を見ながら、広瀬は歩いていく。しばらく行くと、歩道の左側に樹木の連なりが見えた。木場公園とは別の、小規模な公園があるらしい。広瀬はそこに入っていった。

 尾崎は彼女のあとを追って公園に入る。入り口付近に《木場親水公園》というプレートが出ていた。

 親水公園の中を彼女は足早に進んでいった。この時間、園内には誰もいないと思われたが、街灯の中、薄闇に目を凝らすと、東屋の下に人の気配があった。黒っぽいジャンパーを着た人物だ。身長は尾崎と同じぐらい、百八十センチほどだろうか。ちらりと見えた顔には顎ひげが生えていた。おそらく三、四十代の男性だ。尾崎は植え込みの陰に身を隠した。

 広瀬は東屋に近づき、その人物と合流した。

 ふたりは小声で何か話し始めた。残念ながら尾崎のいる場所までは聞こえてこない。内容が気になったが、これ以上近づくのは難しかった。

 五分ほどで話は終わったようだ。最後に広瀬は男性に何かを差し出した。それを受け取って、男性は西の方角へと去っていく。その姿が見えなくなると、広瀬は踵を返した。彼女は三ツ目通りのほうへ戻ってくる。

 タイミングを見計らって、尾崎は植え込みの陰から出た。

 突然現れた尾崎を見て、広瀬は立ち止まった。街灯の下、彼女の顔が見える。普段は何事にも動じず澄ましている広瀬が、今は驚きの表情を浮かべていた。さすがに、ここで尾崎が出てくるとは想像していなかったのだろう。

「コンビニに行くんじゃなかったのか?」

 尾崎が訊くと、広瀬はすぐに答えた。

「ええ、これから行くところです」

「そう言い張るならそれでもいい。だが、君の本当の目的は買い物なんかじゃなかった。あの男と会うことだな? 昨日も会っていたんだよな?」

 広瀬は黙り込んだ。どう釈明すべきか考えているのだろう。

「あの男は誰だ? そういえば君は、捜査中に何度か電話をしていたな。あの男と話していたのか?」

「だとしたら、何だとおっしゃるんです?」

 冷たい調子で広瀬は言った。開き直りとも感じられる言葉だ。こういう言葉が彼女の口から出るのは初めてだった。

「君はいったい、何を画策している? あの男と組んで何をしようとしているんだ」

「彼と一緒に、何かをしようとしているわけではありません」

「じゃあ、あいつは君の何なんだ」

「あの人は、私の協力者です」

 予想外の答えを聞かされ、尾崎は言葉に詰まった。

 警察官にとっての協力者とは、情報提供者のことだ。組織の中で機密情報を集めてくれる協力者もいるし、裏社会で仲間からネタを聞き出してくれる協力者もいる。いずれにせよ、彼らは警察官にはできないような行動をとることが多い。

「君がそんなことをするとは聞いていないぞ」

 咎めるように尾崎が言うと、広瀬は首を横に振った。

「独自の情報網を使って捜査をするのは、咎められるようなことではありませんよね」

 なるほど、と尾崎は思った。この状況が理解できた。協力者はかなり用心深い性格であるか、または金に困っているのだろう。昨夜も今夜も、情報と交換に謝礼を受け取りたいと言ったのではないか。だから広瀬は電話やメールではなく、直接会って報告を受けたのではなかったか。先ほど手渡したものは現金だったに違いない。

「なぜ俺に話さなかったんだ?」

「何か言われると思ったからです」

「……そのとおりだよ」尾崎はうなずいた。「俺は、君の勝手な行動を見過ごすわけにはいかない。このことは加治山班長も知らないんだろう?」

「私には私のやり方があります」

 広瀬はあくまで自分の考えを曲げないつもりらしい。

 たしかに、こうした捜査で協力者の情報が役に立つことは少なくない。だがコンビを組む尾崎にまで隠していた、というところが納得できないのだ。せめて事前に話しておいてくれれば、こんなに苛立つことはなかっただろう。

 高ぶる気持ちを抑えようと、尾崎は深呼吸をした。

「こっちにも事情がある。俺はもう仲間を失いたくないんだよ」

「……え?」

 広瀬は不思議そうな顔をする。彼女に向かって、尾崎はゆっくりと説明した。

「以前、俺はある捜査本部で柳という先輩とコンビを組んでいた。被疑者を見つけて俺たちは追跡し、身柄を確保しようとした。だがそこで予想外のことが起こった。被疑者がナイフを出して、俺たちに襲いかかってきたんだ。柳さんは俺をかばって、刺されてしまった。病院に運ばれたが、結局助からなかった」

 加治山班のほかのメンバーはみな知っていることだった。だが、この四月に異動してきた広瀬は聞いていないはずだ。

「そういうことがあって、俺はコンビを組む相手には気をつかうようになった。警察の仕事は危険と隣り合わせだ。だからこそ無茶なことはしてほしくないし、隠し事もやめてほしいと思っている」

 この話を聞いて、広瀬も突っ張れなくなったようだ。彼女は黙ったまま、じっと何かを考えている。しばらくして、広瀬は軽く息をついた。

「係長がそういう話をなさるのなら、私も打ち明けなくてはいけませんね」

 おや、と尾崎は思った。広瀬がそんなことを口にするとは意外だ。

 彼女の表情を観察しながら、尾崎は言った。

「何かあるなら聞かせてくれ」

 広瀬はこくりとうなずく。それから、淡々とした調子で話しだした。

※ 次回は、4/23(火)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)


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