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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第3回



 尾崎はグレーのスーツ、広瀬は紺色のスーツを着ている。

 ふたりで並んで歩いていると、これから商談に出かける会社員コンビというふうに見えるかもしれない。いや、そうでもないか、と尾崎は思った。広瀬がやけに硬い表情でいるから、何かミスをして取引先へ謝りに行くふたり、という感じに見えるのではないか。

 歩きながら尾崎は考えた。

 自分は深川署に来て何年も経つから、この環境にもずいぶん慣れた。近くのコンビニで昼飯を買っていれば同僚とよく一緒になるし、木場駅の近くで上司と出会うこともある。所轄の人間にとって管内は自分の庭のようなものだ。自分で手入れをしている庭であれば、どこにきれいな花が咲いているか、どこが汚れやすいか、どこでつまずくことがあるか、そういったことは頭に入っているはずだ。

 刑事課であれ交通課であれ、担当地域を隅々まで把握するのは大事なことだった。事前に集めた情報が、捜査での迅速な行動に繋がるからだ。

 そういう意味では、広瀬はまだこの地域に不慣れだし、やりにくい部分があるだろう。

 ──ここは深川署の先輩として、気をつかっておくか。

 信号待ちで足を止めたタイミングで、尾崎は広瀬に話しかけてみた。

「どうだ、うちの署にはもう慣れたか?」

 広瀬はこちらを向いた。相変わらず硬い表情だったが、尾崎の顔を見上げてまばたきをした。

「署の中のことですか。それとも管内のことでしょうか」

 にこりともせず視線を向けてくるものだから、尾崎は戸惑ってしまった。
彼女は今、不機嫌なのだろうか。

「どこか調子が悪いのか?」

「なぜです?」

「なんだか機嫌がよくないみたいだからさ」

 尾崎がそう言うと、彼女はわずかに首をかしげた。通りを走っているバイクや軽トラックに目をやったあと、再び尾崎のほうを向いた。

「すみません、そんなふうに見えていたのでしたらお詫びします」

「いや、謝ることはないよ。でも、もし何かあるんだったら言ってくれないか。こうしてコンビを組んで相棒になったわけだし……」

「相棒、ですか」少し考える様子を見せてから、彼女は続けた。「すみません。私はそういうふうには思えなくて……」

 どうも調子がくるってしまうな、と尾崎は思った。先ほどコンビになったばかりだから、まだ信頼するところまではいかない、と言いたいのだろう。それならそれでいいのだが、わざわざはっきり伝えてきたのはなぜなのか。自分自身に正直なのか、あるいは鈍感なのか。いずれにせよ、少し変わったタイプだという気がする。

 そんなことを尾崎が考えている間も、広瀬は真剣な目でこちらを見ていた。容姿がファッションモデルのように整っているから、あまり見られると落ち着かなくなってくる。

 ああ、そういえば、と尾崎は言った。

「会議で、五月十八日の事件とか言っていたな。何か特別な事件だったのか」

「特別な事件ということはありませんが、片岡係長が指揮した捜査本部に私も参加したんです。それだけですが」

「ふうん。そうなのか」

 信号が青になった。よし、行こう、と声をかけ、尾崎は横断歩道に足を踏み出した。

 尾崎たちの担当は鑑取り捜査だ。

 被害者などと関わりのある人物に話を聞き、情報を集めていくことになる。これは注意が必要な仕事だった。通り魔事件などでない限り、殺人犯は以前から被害者を恨んでいたというケースが多い。過去に何かトラブルがあり、恨みを募らせて犯行に至るというのが一般的だ。従って、被害者の知人に話を聞いていくうち、そうとは知らずに犯人と出会ってしまう可能性があるのだ。

 広瀬は、辺りに通行人がいないのを確認してから小声で言った。

「鑑取りといったら、もっと年長の捜査員がやるものと思っていました」

「捜一のほうではベテランを充てているはずだ。しかしそれだけでは手が足りない。捜査には人数が必要だから、我々所轄にもこういう仕事が割り当てられる」

「尾崎係長は捜一で働いたことはありますか」

「ないよ。あそこは選ばれた人間が行くところだからね。君もずっと所轄だよな?」

「ええ。……尾崎係長は、捜一へ行きたいと思ったことは?」

「そういう刑事は多いと思うが、俺はどうかなあ」

「どうかなあ、というのはどういう意味でしょうか」

 広瀬は細かいところを尋ねてくる。几帳面なのか神経質なのか、物事をはっきりさせないと気が済まないようだ。

「俺は所轄のほうが好きなんだよ」尾崎は答えた。「捜一に行くと凶悪事件ばかり担当するだろう? あれはきついんじゃないかと思う」

「凶悪ではない事件を担当したいということですか」

 自分の考えを批判されたような気分になって、尾崎は黙り込んだ。今度はこちらから尋ねてみる。

「君はどうなんだ」

「私は機会があれば、捜一に行ってみたいと思っています」

「そうか。やる気があるんだな」

「やる気があるというか……。捜一なら、いろいろなことが調べられるでしょう? それに、世の中、許しがたいような事件が多いですよね。私は自分の手で犯罪者たちを捕らえたいんです。どこまでも追跡して、罪を償わせてやりたくて」

「……なるほど」

 納得したわけではないが、尾崎はそう言った。これ以上あれこれ訊くのはよくないことのように感じたからだ。

 徐々に改善されてはいるものの、警察はまだまだ男性優位の組織だ。捜査一課で活躍できる女性は稀だろう。にもかかわらず彼女は捜一に行きたいと言った。そこには、おそらく彼女なりの事情があるに違いない。そしてその事情というのはきっと複雑で、こんな路上で話せるものでないはずだった。
 
 尾崎と広瀬は地下鉄で西葛西駅へ移動した。

 被害者・手島恭介は運送業者だということだったが、実際には個人事業主だった。

 物流大手に「クマダ運輸」という会社がある。小口の貨物輸送を中心に業績を伸ばしている企業で、自社の社員に配送させると同時に、社外の個人にも業務を委託していた。手島はクマダ運輸から仕事を請け負っていたという。

 請負となると年金や健康保険料は個人で払わなければならないし、ボーナスや退職金もない。会社に縛られず自由に仕事ができる代わりに、かなり不安定な立場だと言えた。ただ、最近は非正規で働く人が増えたし、人材の流動も盛んになってきている。個人事業主という生き方に、魅力を感じる人は多いのだろう。

 手島はクマダ運輸の西葛西第一支店に出入りしていた。委託された荷物を自前の軽自動車に積み込み、配達して回っていたのだ。

「手島さんは西葛西の賃貸マンションに住んでいました。知っている土地だから配達しやすい、ということはあったでしょう」

 西葛西駅の改札を出たところで、広瀬がそう言った。

「捜査資料には、自前の車だと書いてあったな。どんな車だったんだろう」

「車種と車のナンバーならわかります。捜査資料に載っていたのはたしか……」

 彼女は額に右手の指先を当て、とんとんと叩いた。それからメーカーと車種、ナンバーを口にした。尾崎は驚いて彼女に問いかける。

「覚えているのか。たいした記憶力だな」

「はい、よく言われます」

 尾崎はスマホの地図を確認したあと、辺りを見回した。東京メトロは地下鉄の路線だが、一部は地上を走っている。ここ西葛西駅辺りもそうで、線路は尾崎たちの頭上、高架の上にあった。

 地図に従って住宅街を歩いていく。暖かい春の午前中、通行人の姿はあまり多くない。ショッピングカートを押して歩く高齢者や、幼児を連れて歩く母親の姿が見えるくらいだ。自転車で通りかかった主婦らしい女性も、心なしかのんびり走っているように感じられる。

 やがてクマダ運輸の西葛西第一支店が見えてきた。

 店舗の横には作業場があり、町でよく見る宅配用のトラックが停まっている。荷物を積み込んでいる制服姿の男性が何人かいた。

 建物の中に入ると、カウンターの向こうで制服にエプロンという恰好の女性が事務作業をしていた。尾崎たちが近づいてくるのに気づいて、彼女は伝票から顔を上げた。

「いらっしゃいませ。お荷物の発送ですか?」

「ああ、いえ、違うんです」尾崎は警察手帳を呈示した。「警視庁の者です。手島恭介さんの件で、お話をうかがいたいと思いまして」

 女性は少し戸惑うような表情になった。

 お待ちください、と言って彼女は奥の部屋に向かう。一分ほどして、小太りの中年男性がひとりでやってきた。

「主任の赤倉と申します」彼は神妙な顔で言った。「手島さんのことは、もう刑事さんにお話ししましたけど……」

 捜査会議が始まる前、指示を受けた刑事がすでに聞き込みに来たのだろう。

「そうでしたか。実は警察の捜査では、繰り返し質問させていただくことがありましてね。申し訳ありませんが、あらためて事情を聞かせてください」

「はあ、わかりました」

 仕方ない、という様子で赤倉はうなずく。

 尾崎はポケットからメモ帳を取り出し、ページをめくった。

「手島さんはクマダ運輸さんの下請けとして、荷物の配達をしていましたよね。最後にここに来たのはいつでしたか」

「昨日の夜九時ごろです。いつもは再配達の荷物が少し残るんですが、昨日はきれいに片づいたという報告を受けました。そのまま引き揚げてもらう日もあるんですけど、昨日は手島さんに渡す書類があったので、ここに寄ってもらったんです」

「そのとき、変わった様子はなかったでしょうか」

「いや……特に気がつきませんでしたけど」

「最近、何か困っているとか、トラブルを抱えているといった話を聞きませんでしたか」

「そういうことはなかったですねえ。もしあったとしても、私たちには打ち明けなかったでしょうし……」

 それはそうだろうな、と尾崎も思う。人間、誰にでも悩みはあるが、他人に話すかどうかは別問題だ。もし話すとしたら、信頼できる相手を選ぶだろう。

「雑談でもいいんですが、何か私的なことをお聞きになったりは?」

「そうですね……」しばらく考えてから、赤倉は再び口を開いた。「冗談半分かもしれませんが、こんなことを言っていましたよ。手島さんは子供のころから勉強が嫌いで、デスクワークはしたくなかったんですって。それで建設現場に行ったり、セールスマンをやったりいろいろ試したんですが、最近は個人で荷物を配達する仕事に落ち着いたんですよ、と。でも配達はフルタイムじゃなくてパートタイムだったんですよね」

 おや、と尾崎は思った。隣にいる広瀬に視線を向ける。

 彼女は即座に首を横に振った。これまでにそういう情報は出ていないはずだ。

「パートタイムだというのは知りませんでした」尾崎は赤倉に言った。「最初からずっとそうだったんですか?」

「ええ。三年前からです。だいたい午後一時から六時ごろまででしたね。うちからお願いして、少し時間をずらしてもらったこともありましたが」

「フルタイムだと週四十時間ですよね。手島さんの場合は?」

「だいたい半分でしょうね。それ以上は難しいということでした。夜は急な用事が入ることもあるから、と言っていましたし」

「どんな用事ですかね」

「詳しいことはわかりませんが、飲みに行くのが好きだったようですよ。飲み友達がいたのかもしれませんね」

 何か大事なつきあいがあったのだろうか。気になる情報だ。

 尾崎に命じられるまでもなく、広瀬は真剣な顔でメモをとっていた。

「車なんですが」尾崎は言った。「手島さんは自分の軽自動車で配達していましたよね。車種でいうと、商用車のようですが……」

 先ほど広瀬が口にしたのは、小型のバンの名前だ。郵便局の配達などでもよく使われている。

「はい、そういう契約でお願いしていましたから」

「もともと手島さんは、個人でそのタイプに乗っていたわけですか?」

「ええ。この仕事のために買った、という話ではなかったと思います」

 尾崎はひとり考え込む。

 それまで黙っていた広瀬が、赤倉に問いかけた。

「ひとつ質問があります。手島さんが不祥事を起こしたことはありませんでしたか」

「不祥事?」

「たとえば宅配便の伝票を見て、ひとり暮らしの女性の電話番号を悪用したりとか……」

「いや、まさか。ないです、ないです」

 赤倉は驚いて否定する。さすがに尾崎も驚いて、広瀬の顔を見つめた。

「なんでそんなふうに思ったんだ?」と彼女に尋ねる。

「以前そういう事件があったものですから、もしかしたら手島さんにもストーカー的な気質があったのではないかと考えまして」

「可能性ゼロとは言えないが、突飛な話だな」

「せっかくここまで来たわけですから、なんでも訊いておいたほうがいいかと」

「それはそうだが……」

 どうも、広瀬は少し変わった性格のようだ。

 咳払いをしてから、尾崎は赤倉のほうを向いた。

「手島さんの過去の勤務記録をコピーしていただけませんか。最近の行動が知りたいんです」

 わかりました、と答えて赤倉は奥の部屋へ入っていく。

 彼の背中を見送ったあと、広瀬が小声で尾崎に尋ねてきた。

「車の件ですが、もともとバンを持っていたのは変だということですね?」

「ああ。買い物をするにせよ、レジャーに行くにせよ、普通、個人で買うなら商用車は選ばないだろう」

「つまり、手島さんはよほどの変わり者だったか、そうでなければ何か目的を持っていたと……」

「変わり者という線はおいておこう」尾崎は言った。「手島さんは以前から、何か大きな荷物を運ぶ必要があったんじゃないだろうか。そのためにバンを買ったんだと思う」

「大きな荷物というのは?」

「今の時点ではまだわからない。だが、こういう推測はできる。クマダ運輸のほうをパートタイムにしたのは、別の仕事のためだったのかもしれない。車を使った何かの仕事だ」

「特別なものを運ぶということでしょうか」

「可能性はあると思う。そもそもパートタイムの仕事だけでは稼ぎが少ないだろう?」

「たしかに……」

 そうつぶやいて、広瀬は思案の表情を浮かべる。

 ──手島恭介にはもうひとつの顔があったんじゃないだろうか。

 腕組みをしながら、尾崎はひとり考えを巡らした。

※ 次回は、3/15(金)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)


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