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北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第1回


はじめに(佐伯泰英山脈をこれから登る人たちへ)
 
 佐伯泰英。平成時代を代表するベストセラー作家のひとりであり、賞レースに縁のない無冠の帝王であり、遅咲きの〝オヤジの星”であり、〝書き下ろし時代小説文庫”を定着させて出版のありようまで変えた男。本好きの誰もが名前くらいは知っているエンタメ小説界の巨人だ。
 
 新刊が出れば必ずと言っていいほど書店の売れ筋ランキング上位に入る売れっ子作家。しかも、それが現在までずっと続いている。代表作の『居眠り磐音 江戸双紙シリーズ』はいったい何部売れているのだろうか。かなり以前に2000万部突破と聞いたが、数字はさらに伸びているだろう。著作のすべてを合わせれば軽々と5000万部を超えるに違いない。ざっくりした数字で恐縮だが、息の長い人気シリーズが多すぎて正確な数字がつかめないのである。
 
 しかし、不思議なことがある。これほどのベストセラー作家であり、ファンも多いはずなのに、「全作品を読んでます!」という〝サエキマニア”は少なそうなのだ。私の知人にもファンがいるのだが、一部の作品しか読んでいないし、完全読破を目指すとも言いださない。
 
 また、佐伯泰英の全体像を提示するような研究書や解説書も、私の知る限り出ていない。ぐんぐん頭角を現してきたころ、インタビューと作品解説をまとめた本などが出版されたことはあったが、かなり昔の話だ。
 
 あるいは人気シリーズの継続中に、これまでの内容をおさらいするような『〇〇読本』が出たりもしてきた。ただ、それらは他の作品にはほとんど触れない、そのシリーズ限定の副読本。いかにしてこの先を楽しんでもらうかがテーマとなっている。
 
 私は、完全読破した人が少ないことや、研究家がいないことに深い理由はないと思う。エネルギッシュな佐伯泰英は、熱心なファンや文芸評論家が追いつかないほどの異常なハイペースで新刊を発表し続けてきたのだ。
 
 その数はとうとう300冊を突破した。1999年に1作目が世に出ているので、2023年までの期間はざっと25年間。単純計算で年間12冊の新刊を生み出してきたのだから、これはもう『月刊佐伯』状態と言ってもいい。本人がインタビューやエッセイでたびたび『月刊佐伯』のフレーズを使っているくらいだ。しかも苦しそうにじゃなく、むしろ楽し気にそう言うのだ。あまりの多忙さに体調を崩したこともあるのだが、回復するやいなや、空白期間を取り戻そうとするかのようにバリバリと執筆を再開するのである。
 
 さらにファンにとって厄介なことがある。『月刊佐伯』ではひとつのシリーズが順次発表されるのではなく、多いときには片手で足りないほどのシリーズの新刊がつぎからつぎに発売されるのだ。
 
 読者はあるシリーズで佐伯時代小説に触れ、好きになる。その段階では佐伯ファンというよりシリーズの愛読者だ。さほどの空白期間もなく次作が出るので、またそれを読む。佐伯泰英はおもしろい、他にもないだろうかと書店を探し、別のシリーズを手にする人もいるだろう。
 
 だが、それにも限界がある。複数のシリーズを並行して読むと混乱しがちだし、読みたい作家は他にもいる。そもそも、読書ばかりしてもいられないのが普通の人のペースというものだ。なのに佐伯泰英は待ってくれない。おかまいなしに新作を書き、新シリーズを立ち上げてしまう。
 
 もちろん、好きな作家が新作を発表するのはうれしいものだ。まだ読んでいない作品があれば、先の楽しみが増える。だから、こんなふうに思う。
 
「とりあえず、いまハマっているシリーズを優先し、完結したら新しいのを読もう」
 
 健全な考えだ。いい読者、得難いファンであると私は言いたい。それなのに、ここでも問題が起こってしまう。シリーズが終わらないのだ。なにしろ著者である佐伯泰英が、物語の決着をどうつけるかを筆の運びにまかせて書いていくタイプだから、絶好調であればあるほど長期化しがちになるのである。これには読者もお手上げだ。ノリノリで書かれた巻はおもしろいに決まっているから読むしかないが、大航海の行き先がどこの港なのかは見当がつかない。かくして、気づいたときには遠い海の果てに連れていかれ、完結したときにはいくつもの未読の作品が本棚のコヤシとなっている……。
 
 おそらく、佐伯作品をすべて読んだ〝サエキマニア”が少ない理由はそのあたりではないだろうか。
 
 それでも、愛読者だと自認する人は言うだろう。興味をなくしたとか、あきらめたわけではないのです。佐伯先生とて人の子、そういつまでも『月刊佐伯』状態を維持できるわけではないでしょう。なぁに、いつかは追いついてみせますよ、と。
 
 その心情はよくわかる。わかるけど、甘い。
 
 無類のタフネスと職人気質を持ち、新作を待つ読者に喜んでもらうことを生きがいとする佐伯泰英はちっとも前進をやめてくれないのだ。続編がまたシリーズとして始まったり、完結したシリーズに手を入れた〈完全版〉や〈決定版〉が出されたりする。80代を前にして、もしも未完のまま終わったら申し訳ないという理由で大長編シリーズに取り掛かるのはやめることとなったが、その直後に発表された作品は〈全4巻で完結〉だった。1巻物ではどうしても気が済まないのだ。
 
 それでも、ここにきて果てしなく続くかに思われたシリーズに終止符が打たれたり、決定版の締めくくりではないかと思われる『吉原裏同心』シリーズの刊行が最終刊にたどりつくなど、慌ただしくも華やかな四半世紀の活動が、いくらか落ち着いてきた気配がある。
 
 そろそろ、腰を据えて佐伯作品を読み込んでいく頃合いではないだろうか。特定のシリーズしか読み終えていないファンはもちろん、気になりつつもなんとなく敬遠していた人、最近になって時代小説に興味が出てきた人にとって、質・量ともに取り組みがいのある作家であるはずだ。
 
 では、膨大な作品群をどこから読めばいいのか。どんな作品があり、それぞれの特徴や読みどころはなんなのか。前述したように、その道しるべとなりそうな解説本はまだない。これは困った……と思ったのは、『居眠り磐音』シリーズと『狩り(夏目影二郎始末旅)』シリーズを読んで佐伯ファンになったはいいが、次に何を読めばいいのかわからず、書店の佐伯コーナーで立ちすくんでしまった私自身である。
 
 そして思った。どこから手をつければいいか迷ってしまう人はきっと大勢いる。誰かが全力で佐伯作品に立ち向かう覚悟を決め、片っ端から読んでリポートすべきだ。では誰が?
 
 待っていてもそんな人は現れそうにない。佐伯作品はこれまで圧倒的な結果を残してきた。あまりにも売れ、あまりにも多作であるがゆえに、研究書を書くような人にとって、逆に食指の動きにくい作家なのかもしれない。
 
 じゃあどうする。作家生活のまとめに差し掛かっているなら、執筆から引退するのを待ってぼちぼち読んでいけばいいとはならない。佐伯泰英が現役作家だからこそ、佐伯本はどの書店にも潤沢にあるのだ。電子書籍化も進んでいるものの、時代小説の中心となる読者は中高年。できれば紙の本で読みたい人がまだまだ多いだろう。
 
 そんなことをグダグダと考えていて、ふいに思ったのだ。だったら自分でやればいいのではないか、と。一介のライターにすぎず、書評家でもなければ時代小説通でもない私にそんなことができるのかはわからないが、時間と意欲だけはある。
 
 どっぷり1年間、佐伯ワールドに浸ってみようと思う。寝ても覚めても佐伯本だ。朝のひとときや、移動時が佐伯まみれになる。SNSに費やしていた時間も、友人との雑談も、みんな佐伯に奪われる。生涯最高の活字漬け生活になるのは確実だ。血圧は大丈夫だろうか。デブにならないだろうか。でも、佐伯本を完全読破する誘惑の強さときたら……。
 
 我が読書生活の大冒険となる無謀な試みを、私は〈佐伯泰英山脈登頂記〉と命名することにした。
 
 平成の時代小説界における最大の噴火で誕生した佐伯泰英山は、シリーズごとに熱いマグマを噴き上げてとどまることを知らなかった。かつては小さな丘に過ぎなかった大地が、たび重なる噴火によって高みへと持ち上げられ、いくつもの高峰がそびえる一大山脈に成長したのである。
 
 その山々を、一歩一歩、活字という登山道を踏みしめながら歩いていきたい。
 
 道はいろいろであるはずだ。なだらかな林間コースばかりではなく、険しく登りづらい崖もあることは予想がつく。なぜ、これほどの長期間、衰え知らずの人気なのか。読者を引きつけてやまない魅力の理由はどこにあるのか。せっせと書き続けるバイタリティの源は何なのか。読書の過程で見えてきた景色や感じたことを、忖度なく記していきたい。
 
 では、参る。
 

※次回は、5/18(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)