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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第12回




 豊島区池袋本町に移動し、住宅街の路地を歩いていく。

 やがて目的地が見つかった。壁はクリーム色、屋根はオレンジ色という洒落た外観の二階建てだ。一階と二階を合わせてひとつの住戸とした、メゾネットタイプのアパートだった。

 近くの路上に覆面パトカーが二台停まっていた。片岡係長が言っていたとおり、先に捜査員が到着しているのだ。

 建物には四つの住戸があるようだ。表札を確認すると三号室に《白根》と書かれていた。

 チャイムを鳴らすとじきにドアが開いて、眼鏡をかけた男性が顔を出した。

「ああ。お疲れさまです、尾崎さん」

 同じ班の塩谷だ。彼のうしろにいるのは佐藤だった。昨日、西葛西の手島恭介の部屋でも、尾崎たちはこのふたりと会っている。

「さすが、早いですね、佐藤さん」

 尾崎が言うと、佐藤は太い眉を上下させて口元を緩めた。

「俺たちは遊撃班だから誰よりも早く動ける。行けと言われればどこにでも飛んでいくさ」

「もう部屋の捜索は終わったんですか?」

「今やっているところだ。今日は俺たちだけじゃないから、尾崎たちにはちょっと待ってもらったほうがいいだろうな」

「そういえば、表に車が二台ありましたね」

「捜一が来ているんです」塩谷が眼鏡のフレームを押し上げながら言った。
「さすがに彼らの前で尾崎さんたちを中に入れたら、いい顔はされないんじゃないかと……」

 尾崎と広瀬は鑑取り班だ。被害者の知り合いを探すためにここへ来たのだが、厳密に言えば被害者宅の捜索は鑑取りの仕事ではない。片岡係長の許可を得ているとはいえ、捜査一課の刑事たちはよく思わないだろう、というわけだ。

「どれくらいかかります?」

「そうだな」佐藤はワイシャツの袖をめくって腕時計を見た。「あと一時間ってところか」

「じゃあ、近所で情報収集してきますよ。それなら問題ないでしょう」

「ああ、そうしてくれ」

 佐藤に一礼して、尾崎と広瀬は三号室をあとにした。

 共用廊下を移動する。一番奥から一号室、二号室となっていて、アパートの出入り口に近いところが五号室だ。縁起が悪いという理由だろう、四号室はない。

 一号室のチャイムを鳴らしたが応答はなかった。平日の昼間だから、勤め人だとすれば不在なのも仕方がない。

 二号室には五十代半ばの男性がいて、話を聞くことができた。しかし厚木というこの男性は、白根とのつきあいは一切なかったという。

「あの人、二年前に引っ越してきたんですよ。前は平井に住んでいたと言ってましたね。最初に話したときは、まあ悪い印象はありませんでした。でもそのあとがねえ……」

「何かあったんですか?」

「白根さんはときどき大きなボリュームで音楽を聴くんですよ。それで私はイライラしてしまってね。気分が悪かったから、ここ一年ぐらいは顔を合わせないようにしていました」

 不満げな口調で厚木は言う。かなり腹立たしく思っていたらしいことがわかる。

「実は今日、白根さんの遺体が見つかったんです」

 尾崎がそう打ち明けると、厚木は目を大きく見開いた。さすがに、それはまったく想像していなかったはずだ。彼はばつの悪そうな顔をした。

「いや……悪口を言うつもりはなかったんですけどね」

「ええ、わかっています」

 ほかに何か情報は得られないだろうか。尾崎はこの建物の出入り口付近を思い出した。あそこには防犯カメラは設置されていなかった。となると、白根の行動を知るには、近隣住民の記憶に頼るしかない。

「隣ですから、音楽のほかに生活音も聞こえていましたよね?」尾崎は尋ねた。

「まあ、そうですね」

「昨日とか一昨日とか、白根さんが部屋にいる気配はありましたか」

「どうかなあ……」厚木は記憶をたどる表情になった。「一昨日の夜は部屋にいたんじゃないですかね。昨日の夜のことははっきり覚えていないけど、帰ってこなかったかも」

 検視や司法解剖の結果を待たなくてはならないが、白根が殺害されたのはおそらく昨夜から今朝にかけてだと思われる。血痕の状態などから、そのように想像できる。

 もし昨夜、白根が帰宅しなかったのなら、外出中に犯人が接触してきたのだろう。犯人はどこかで待ち伏せて白根を拉致したのか、それとも事前に連絡をとるなどして呼び出したのか。いずれにせよ最終的には白根を廃倉庫に連れ込み、殺害したと考えられる。

 礼を言って、尾崎と広瀬は二号室を辞去した。

 気を取り直して五号室を訪ねてみる。表札に書かれている名前は《西村》だ。

「はあい、どちらさま?」

 インターホンから女性の声が聞こえた。尾崎は穏やかな調子で話しかけた。

「警察の者ですが、ちょっとお時間よろしいですか」

「え……。あ、はい」

 数秒後にロックを外す音が聞こえて、ドアが開いた。顔を出したのは三十代後半と見える女性で、風呂の掃除でもしていたのかハーフパンツを穿き、シャツの袖をまくっている。

「西村さんですね? 私、警視庁の尾崎といいます」

 尾崎が警察手帳を見せると、西村は怪訝そうに尋ねてきた。

「何かあったんですか?」

「実は三号室にお住まいの白根さんが亡くなりまして……」

「えっ、本当に?」

「内密にお願いしたいんですが、何者かに殺害されたものと思われます」

 三和土に立ったまま、西村は大きくまばたきをした。信じられない、という表情だ。

「……いったいどうして」

「詳細は不明ですが、白根さんは廃倉庫で亡くなっていました。普段、白根さんとはおつきあいがありましたか?」

「つきあいというほどではなかったんですけど、軽く立ち話ぐらいはしましたよ。しっかりした人だという印象がありました。それなのに……」

 西村は落ち着かない様子で、何度か首を左右に振った。

 しっかりした人、という言葉に少し違和感があった。尾崎は西村に確認する。

「白根さんが大きなボリュームで音楽をかけていた、という話を聞きました。それで迷惑していた人がいたようなんですが、西村さんは気になりませんでしたか?」

「それ、二号室の厚木さんですよね? 白根さんは週末の夕方に音楽を聴いていましたけど、そんなにすごいボリュームじゃありませんでした。……厚木さんは神経質なんですよ。私と白根さんが外の廊下で立ち話をしていると、静かにしてくれって文句を言われましたから」

 そういうことか、と尾崎は納得した。音の感じ方は人それぞれだから難しい。

「最後に白根さんを見たのはいつでしょうか」

「……最近は見ていなかったですね。半月ぐらい前にごみ出しのとき見かけたかな」

「白根さんの部屋を誰かが訪ねてきたとか、様子を窺っていたとか、そういうことはありませんでしたか」

「特に気がつきませんでしたけど」

「では、白根さんが何かに悩んでいたとか、困っていたとか、そういうことは」

 そうですねえ、とつぶやいて西村は考え込んだ。隣の三号室のほうへちらりと目をやったあと、彼女は何か思い出したようだ。

「引っ越してきてから一カ月後ぐらいに、白根さんが変なことを言っていたんです。当時、この先の公園の横に空き家があったんですが、そこをすごく気にしているようでね。『あそこは危ないですよね』とか『子供が遊びに入ったらまずいですね』とか、やたら心配していましたよ」

 空き家という言葉はかなり気になった。今回の三好事件では廃アパートが、赤羽事件では廃倉庫が死体遺棄に使われているのだ。

「その空き家というのは、今も……」

「いえ、もう新しい家が建ちました。きれいな戸建てです」

「ああ……そうなんですか」

「でも当時、白根さんがいろいろ言うものだから私も気になりましてね。自治会のほうに頼んで、地権者に問い合わせてもらったんです。そうしたら家の中や庭を調べてくれたみたいで、何も問題ないことがわかりました。家の門がぐらついていたので、そこを簡単に修繕して、誰も入らないようにしてくれたんですよ」

 結局、事件性のものは何もなかったわけだ。しかしそうだとすると、納得できないことがある。

「どうして白根さんは、その家のことを心配していたんでしょう」

「さあ、私にもわからなくて……」

「前にその空き家で、何かトラブルがあったということは?」

「何もないはずですよ。事件が起こったこともないし、幽霊屋敷なんて噂もなかったし……。本当に不思議ですよね」

 そのほかいくつか質問を重ねたあと、尾崎は捜査協力への礼を述べた。

 アパートを出て、近くの住宅を見回してみる。今この辺りに廃屋はないが、所有者が転居したり変わったりすれば、住人がいなくなるのはよくあることだ。そんな中、白根が一軒の空き家を気にしたのはどうしてなのか。

 どうもしっくりこない話だった。尾崎は広瀬に話しかけてみる。

「さっきの空き家の話、君はどう思う?」

「そうですね」広瀬はメモ帳を見ながら言った。「白根健太郎さんにとって、その家は特別な場所だったんじゃないでしょうか」

「特別な場所とは?」

「詳しいことはわかりません。でも、何かこだわる理由があったんでしょう」

 尾崎は広瀬とともに、空き家があった場所に行ってみた。先ほどの話のとおり、公園の横には新しい二階家がある。念のため現在の住人に話を聞いてみたが、何も知らないということだった。
 
 近くで聞き込みをするうち、一時間が経過した。

 アパートの前に戻ると、面パトは一台だけになっている。三号室のチャイムを鳴らすと、じきにドアが開いて佐藤が出てきた。

「待たせたな」佐藤は言った。「捜一は先に引き揚げた。白根さんのアルバムやメモ、ノートパソコンなんかを集めてある。このあと俺と塩谷が捜査本部に運ぶことになっているが、その前に尾崎にも見せてやるよ。そのためにここへ来たんだろう?」

「お察しのとおりです」尾崎はうなずいた。「助かります」

 尾崎たちは白手袋を嵌めて、白根の部屋に上がった。

 リビングルームのテーブルに、取っ手付きの紙バッグがいくつか置いてある。尾崎は広瀬のほうを向いた。

「ふたりで白根さんの所持品を調べるぞ。関係者のものらしい住所、氏名があったら写真を撮るように。不審なメモなんかが出てきたら俺に教えてくれ。ノートパソコンは専門家に任せるから気にしなくていい」

「承知しました」

 そう答えると広瀬は早速、紙バッグの中身を調べ始めた。

 今回はすんなりいったな、と尾崎は思った。広瀬とコンビを組むに当たって留意すべきなのは、常に明確な指示を与えることだ。それが理解できた今、広瀬をコントロールするのはそう難しくはない。

 古い住所録が一冊見つかり、広瀬はスマホで写真を撮った。また、ノートの中には走り書きで、いくつかの名前や電話番号が記されていた。それらも写真に収めていく。

「尾崎さん、近隣で聞き込みをしてくれたんですよね?」塩谷が尋ねてきた。「何かつかめましたか? もう少ししたら、地取り班がやってきて本格的に聞き込みをするんですが……」

 作業の手を止めることなく、尾崎は答えた。

「これといった情報はなかった。ただ、当時この近くにあった空き家のことを、白根さんがすごく気にしていたというんだよ。理由はわからないけど」

「空き家ですか……」塩谷は腕組みをして考え込んだ。「何かの犯罪に使おうとしていた、とか? いや、それはないか。さっき確認したんですが、白根さんには前歴がありませんからね」

「単に心配性だった、というだけなんだろうか」尾崎は首をかしげる。

 紙バッグの中身を調べたあと、尾崎と広瀬は部屋の中を見ていくことにした。

 リビングの書棚やチェスト、クローゼットなどをざっと確認してみる。細かいところはすでに捜一と佐藤、塩谷が調べてくれているはずだ。

 尾崎たちが台所に移動したとき、佐藤が教えてくれた。

「小さいホワイトボードがあるだろう。そこにマーカーでメモが残されていたんだ」

 見ると、冷蔵庫のドアに小さなホワイトボードが貼り付けてあった。食品や調味料のメモが多い中、異質なものがふたつある。

 ひとつは《行方不明》という漢字。

 そしてもうひとつは《agcy》というアルファベットだ。

 広瀬がホワイトボードの写真を撮った。その隣で、尾崎は文字をじっと見つめる。

「気になりますね」尾崎は言った。「誰が行方不明になったんだろう。まさか三好事件の手島恭介のことか。あるいは、自分自身が事件に巻き込まれると予想していたとか?」

「アルファベットのほうは何でしょうね。調べてみます」

 広瀬はスマホの画面をタップして、ネット検索を始めたようだ。しばらく操作を続けていたが、やがて彼女は顔を上げ、尾崎を見た。表情が強張っているように感じられる。

「どうかしたのか」

「……尾崎係長、わかりました」

「何がわかったんだ? 見せてくれ」

 彼女が差し出したスマホの液晶画面を覗き込む。そこに表示された説明文を読んで、尾崎は思わず目を見張った。

 アルファベット「agcy」の意味がわかると同時に、それが指し示すものを連想することができたのだ。

「そういえば……」広瀬は言った。「さっきのノートに、新宿区の地図をプリントしたものが挟んでありました。あれも繋がってきますね」

「ああ……たしかにそうだな」尾崎はうなずく。

 おそらくこれらは偶然の一致というわけではあるまい。白根のメモは大きな手がかりとなるに違いなかった。地図のプリントに気づいてくれた広瀬にも感謝すべきだろう。今までやりにくい相手だと思っていたが、今回は彼女を評価すべきだと思った。

「いい観察力だ、広瀬」尾崎は言った。「すぐに移動しよう」

「了解です。急ぎましょう」

 佐藤たちに行き先を告げて、尾崎と広瀬はアパートを出た。

※ 次回は、4/16(火)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)


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