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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第22回


 朝の捜査会議が終わると、刑事たちは次々と捜査に出かけていった。

 尾崎と広瀬も深川署を出た。いくつか気になることはあるが、今は北野康則を見つけ出すのが先決だ。広瀬は彼と何度も会っているから、関係のありそうな場所で聞き込みをすれば何かわかるかもしれない。期待を込めて、情報収集を開始した。

 しばらく空振りが続いたが、一時間ほど経ったころ高田馬場で当たりが出た。

「ああ、この写真の人、東川さんですよね?」

 新陽エージェンシーの近くにあるカフェバーで、マスターがそう言ったのだ。

「東川と名乗っていたんですね?」

「そうですけど。……違う人ですかね?」

「いえ、その人だと思います」尾崎はうなずいた。「東川さんについて何かご存じですか? 知り合いのこととか、住んでいる場所とか……」

「たしか、東中野のアパートに住んでいるって言ってましたよ」

「本当ですか?」

「私、東中野に親戚がいるものだから、どのへんに住んでるんですかって東川さんに尋ねて……。ああ、そこなら知っています、なんて地元の話で盛り上がってね」

 しめた、と尾崎は思った。勢い込んで相手に尋ねる。

「そのアパートの場所を教えていただけますか」

「建っている場所はわかるんですが、何丁目の何番というのは調べてみないと……」

 マスターはスマホで地図アプリを起動させた。東川との会話を思い出しながら、地図をスクロールしていく。ああ、ここです、と彼は言った。
 場所を教わって、尾崎たちはマスターに礼を述べた。カフェバーを出て駅に向かう。

 タクシーを飛ばして十数分、東中野のアパートに到着した。築三十年ほどだろうか、二階建てのこぢんまりした建物だ。一階と二階、合わせて六戸あるようだった。共用廊下を歩いて、順番に表札をチェックしていく。すべての部屋を確認したが、東川はもちろん、北野も南原も見当たらない。ひとつ気になったのは、二階の一番奥の部屋が空いていることだった。

 隣の部屋のチャイムを鳴らしてみる。はあい、とインターホンから返事があったので、警察だと伝えた。

「えっ、警察の人?」

 インターホンが切れて、すぐにドアが開いた。顔を出したのは四十代と思える女性だ。ふっくらした体形で、茶色いセーターにエプロンという恰好だった。

「何かありましたか?」怪訝そうな顔をして、彼女は尋ねてきた。

「このアパートに東川さんという人はいませんでしたか。いや、もしかしたら別の名前かもしれませんが……。この人です」

 尾崎はポケットから顔写真を取り出す。住人の女性はそれをひとめ見て、はいはい、とうなずいた。

「東川さんね。お隣に住んでいたけど、半月ぐらい前に引っ越しましたよ」

 隣の空き部屋をちらりと見たあと、尾崎は再び尋ねた。

「どこへ越していったかわかりませんか?」

「いえ、そこまでは……。それほど親しくもなかったし」

「東川さんは、ここにどれくらい住んでいたんでしょう?」

「そうね……。二年ぐらい、いたのかな」

「その間、何か問題はありませんでしたか。気になったこととか、トラブルとか」

「それはなかったと思いますよ。あの人、夜遅くに帰ってくることが多かったようですけど、静かに生活していたし」

「誰か知り合いが訪ねてきたことは?」

「それもなかったですね」

 半月前に転居して、奴はどこに行ったのだろう。そもそも、転居した理由は何だったのか。もしかしたら犯行の準備をするため、ここを引き払ったということだろうか。

 ──まさか、身辺整理をして犯行に臨んだのか?

 だとしたら厄介な話だった。普通の生活に戻るつもりがない者、つまり逃げおおせるつもりがない者は、自暴自棄な行動に出るおそれがあるからだ。

 協力してくれたことに謝意を示して、尾崎と広瀬はアパートを出た。

 アパートの門のそばに、不動産会社の連絡先が書かれている。尾崎たちはそこへ電話をかけたあと、最寄りの店を訪ねてみた。東川が提出した身分証明書のコピーを見せてもらったところ、どうやら偽造されたものらしいとわかった。東川に連絡をとろうとしたが、届出のあった携帯番号にかけても通じない。もちろん、アパートを出たあとの転居先もわからない。

 正直なところ、落胆が大きかった。

 ようやく北野の手がかりがつかめると思ったのに、今回もまた成果なしだった。一連の事件ではなかなか核心に迫ることができない。決定的な手がかりにたどり着けないことが、本当にもどかしい。

「次はどうする?」

 広瀬の声にも少し疲れが感じられた。尾崎と同じで、体の疲労というより失望が大きいのだろう。

 気持ちを切り換えようと、尾崎は酒販店の脇にある自販機コーナーに向かった。広瀬もあとからついてくる。何か奢ってやろうかと彼女に話しかけたとき、ポケットの中でスマホが鳴りだした。

 液晶画面を確認すると、相手は鑑識の藪内だ。

「尾崎です。藪ちゃん、お疲れさま」

「ああ、繋がってよかった。尾崎さん、手島恭介の古いスマホのこと、覚えていますか?」

 尾崎は記憶をたどった。たしか第一の事件のあと、手島の家で見つかったものだ。

「今は使われていない、かなり古いスマホだったよな」

「本部鑑識が調べていたんですが、戻ってきました。さっき私のほうで内部のデータをチェックしていたら、ちょっと気になる写真が見つかりまして……」

「気になる写真?」

「風景写真です。ぜひ尾崎さんにも見てもらいたいんですが」

「……ヒントになりそうなのか?」

「場合によっては、そうかもしれません」

「わかった。すぐ戻る」

 電話を切って、尾崎は広瀬のほうを向いた。彼女にも、だいたいのことは聞こえていたようだ。

「深川署に戻るのね? タクシーにする?」

「そうだな。できるだけ急ぎたい」

「ちょっと待ってて」

 そう言って、広瀬は大通りのほうへ走りだす。

 ちょうど走ってきたタクシーに向かって、彼女は大きく手を挙げた。



 エレベーターに乗り込み、尾崎は目的のフロアのボタンを押した。

 ここ数日、出入りしているのは捜査本部が設置されている講堂だが、今の行き先は別フロアだった。ドアが開くと同時に、尾崎と広瀬はエレベーターを降りる。急ぎ足で廊下を進んで、目的地に到着した。

 そこは深川署・鑑識係の部屋だった。

 室内を見回すと、奥の打ち合わせスペースに藪内がいた。彼はこちらに気づいて右手を上げた。尾崎たちは彼に近づいていく。

「ずいぶん早いですね」藪内は驚いたという顔をしていた。「移動にもっと時間がかかるかと思っていました」

「せっかく藪ちゃんが連絡をくれたんだ。待たせちゃ悪いだろう」

 尾崎たちは打ち合わせ用の席に着いた。テーブルの上には何種類かの資料とノートパソコン、そして一台のスマートフォンがある。形状から、少し古いものだとわかった。

「これです。手島恭介の部屋で見つかりました」

 藪内はスマホを差し出した。彼が白手袋をしているのを見て、尾崎と広瀬も両手に手袋を嵌める。

 スマホを受け取り、尾崎はタッチペンで操作してみた。

「今、通話はできないんだよな?」

「そうです。機種変更をしたあと、自宅に残してあったスマホですからね。中にデータが残っているだけなんですよ」

「写真があるということだったが……」

「ええ。ちょっと見てもらえますか?」

 藪内に促され、尾崎は写真アプリを開いた。過去に撮影された画像データがずらりと表示される。

 ポートレートは一枚もない。そこに残っているのはどれも町並みの写真だった。町歩きをしながら一軒一軒、建物を撮影したもののようだ。それが大量にある。

「なんだか住宅調査の記録みたいな写真だな。しかしこれ自体は、特に不審とは思えないが……」尾崎は首をかしげた。「藪ちゃんが言う『気になる写真』というのはどれだ?」

「もう少し遡ってください。……あ、それです。その建物」

 藪内が指差した写真を拡大してみた。画面いっぱいに映し出されたその建物を見て、尾崎は眉をひそめる。

 左側に駐車場、右側には美容院。その間に挟まれた青い屋根の二階家。《めし 酒 大衆食堂 こじま屋》という看板が掲げられている。

「昨日の事件現場じゃないか!」

 そうなんですよ、と藪内は言った。

「よく見てください。写真ではこの店、営業しているんです」

 彼の言うとおりだった。ガラス戸を開けて店に入ろうとする男性が写っている。作業着姿だから、近くで工事などの仕事をしていた人物だろう。

「撮影日時は……」尾崎は画像の情報を確認した。「五年前の一月十三日、十二時七分か。五年前といえば錦糸町事件のあった年だよな」

 尾崎は広瀬のほうを向く。彼女は額に右手の指を当てながら答えた。

「錦糸町事件は五年前の三月六日、二十三時三分ごろ発生しました。この写真は、事件の五十二日前に撮影されたものですね」

 藪内は驚いた顔で広瀬を見たが、すぐに別の写真を指差した。

「この一月十三日、手島は午前九時ごろから午後五時ごろまで、大田区大森南を歩き回っているんです。行く先々で建物の写真を撮っています。その途中でこの大衆食堂を撮影したようですね」

 尾崎はタッチペンの操作で写真を先へ送り、手島の歩いた経路を確認していった。手島は大衆食堂の前を通過し、道の両側に並ぶ家々を一枚ずつ撮影している。食堂の三軒隣にかなり古い民家があった。門の横に《賃貸物件》という看板が出ている。手島はそこで足を止めたらしく、その民家の写真を十数枚撮っていた。

「この家だけ、ずいぶん念入りに撮影しているな」

「ええ。それもちょっと気になりますよね。まるで何かを調べているみたいでしょう?」

「大衆食堂の写真は、通りすがりに一枚撮ったという感じだよな。ほかの家もそうで、一軒につき一枚ずつだ。ということは、この賃貸物件が手島の目的だったのか?」

「俺もそう思いました。食堂のほうはたまたま歩きながら撮っただけ、みたいな……」

 こうなると、ほかの写真も見ていく必要があるだろう。

 尾崎は画像データを一枚ずつ調べていった。

 撮影の日付が変わって、一月十六日になった。手島はまた町並みを撮影しつつ歩いたようだ。これはどこだろう。前回と同じ大森南だろうか、それとも別の町か。そう考えているうち、突然、広瀬が声を上げた。

「その建物、見たことがあるわ」

 えっ、と言って藪内が彼女のほうを向く。

 尾崎はスマホの画面をじっと見たが、どこなのかはわからなかった。正面にシャッターが下りた、比較的きれいな二階家が写っている。その家は入念に十枚ほど撮影されていた。シャッターには《貸店舗》というパネルが貼り出されているのが見える。

「知っているのか、この建物を」

 尾崎が尋ねると、広瀬は深くうなずいた。

「管内の地理を把握しようとして、歩き回ったことがあるの。尾崎くん、これは深川署の管内、三好にある建物よ。第一の事件現場のすぐ近くだったはず。今は雑貨店になっていると思う」

「第一の現場の近く?」尾崎はまばたきをした。「手島はそんな場所にも行っていたのか」

 写真をスライドさせていくと、歩きながら撮影した民家やアパート、雑居ビルなどが次々に現れた。そのうち、あ、と尾崎は思った。事件現場となった三好のアパートが写っていたのだ。しかし五年前だから、まだ廃屋とはなっていないようだった。

「君の言うとおりだ。たしかに三好が撮影されているな」

 広瀬は自分のスマホを取り出し、地図アプリを起動させた。

「地図で確認すると、この貸店舗だった建物から第一の事件現場である廃アパートまでは、ほんの四十メートルほどよ。かなり近い場所だと言えるわ」

 尾崎は腕組みをして考え込んだ。

 第一、第三の事件現場辺りの写真が出てきたのだ。ということは、第二の事件現場付近の写真も見つかるのではないか。そう思ってさらに画像を調べていった。一月十八日に多数撮影されているのは、《風間冷機》という看板のある店だ。シャッターが下りていて、すでに廃業しているように見える。

 次の写真は一月二十四日に撮影されていたが、やはり一軒につき一枚ずつが基本となっているようだ。しかし、ひとつ気になる点が見つかった。

 車庫付きの廃屋らしいものが写っている。その建物だけは全部で十数枚撮影されていた。よく見ると、《売物件》の看板が出ている。手島はそこから先、また家々を撮っていったようだ。やがて第二の事件現場となった赤羽の倉庫が現れた。五年前の時点では廃倉庫ではなく、営業している立派な倉庫だ。これは一枚しかなく、撮影者が特に注目しているという感じはない。

「何か法則性がありそうな気がするな」

 尾崎はつぶやく。その横で、広瀬が顔をしかめていた。

「複雑で、よくわからなくなってきたわね」

「ちょっとまとめてみようか」

 尾崎はA4のコピー用紙を取り出した。少し考えてから、項目をメモしていった。
 
  ◆1月13日……①大森事件の現場・大衆食堂の写真
         ②大衆食堂近くの「賃貸物件」の写真(多数撮影)
 
  ◆1月16日……③「貸店舗」の写真(多数撮影)
         ④三好事件の現場・アパートの写真
 
  ◆1月18日……⑤「風間冷機」の写真(多数撮影 廃業? 場所不明)
 
  ◆1月24日……⑥「売物件」の写真(多数撮影)
         ⑦赤羽事件の現場・倉庫の写真

※ 次回は、5/21(火)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)