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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第21回


 午後十一時四十五分。尾崎はマンションの敷地内にいた。

 ごみ収集箱の陰に隠れて、静かに前方を見つめている。この時刻、敷地内を歩く者はひとりもいない。たまに表の通りを車が走っていくが、このマンションに入ってくる車両は一台もなかった。

 敷地内にはぽつりぽつりと街灯が灯っている。青白い光が辺りを照らしていたが、充分な明るさとは言えなかった。あちこちに暗がりがあるから、尾崎がこうして隠れていても容易にはわからないだろう。

 前方三十メートルほどの場所に、地域の集会所が見える。その近くにひとりの人物の姿があった。広瀬だ。

 彼女は今日も深川署を出て、夜の町を歩いてきた。尾崎はそれを尾行してここまでやってきた。広瀬の勝手な外出を咎めたのは昨夜のことだ。にもかかわらず、彼女はまたひとりで出かけていった。

 広瀬のその行動は尾崎を戸惑わせると同時に、少し苛立たせるものだった。このような行動はもうしない、と約束してくれたのだと思っていた。尾崎はそれを信用していたのに、彼女は黙って外出した。いったい何を考えているのだろう。

 広瀬は集会所のそばで、街灯の光を避けるように立っている。その場所に来てから、すでに三十分以上が経過していた。彼女はあちこちに目をやっている。誰かを待っていることは間違いない。

 ひとつ呼吸をしてから尾崎は行動を開始した。静かに暗がりの外へと出ていく。昨夜もこんなふうだったな、という既視感があった。

 一点だけ昨夜と違っていたのは、尾崎が街灯の明かりの下を堂々と歩いていったことだ。当然その姿は広瀬の目に入る。彼女は警戒する様子だったが、じきに尾崎だと気づいたようだ。

「尾崎くん。また、あとをつけてきたの?」

 距離が近づくと、広瀬の表情がはっきり見えてきた。驚いたというより、呆れたというような顔をしている。尾崎は言った。

「もう、ひとりで出かけるのはやめたんだと思っていた」

「ああ、すみません、コンビニで買い物がしたかったものだから」

「まだそんなことを言うのか。君は協力者に会おうとしているんだろう? だが、君が来てからもう三十分以上経っている。たぶん彼は来ないと思うぞ。そろそろ潮時だと察して、身を隠したんだろう」

「どうしてそう言えるの?」

 尾崎は咳払いをしたあと、彼女に言った。

「大事な話をしなければならない。……君は昨日と同じ男を待っているはずだ。その男は北野康則といって、野見川組の下働きをしていた人物だ。そして菊池班長が会おうとしていた人物でもある」

 広瀬はまばたきをしてから、怪訝そうな表情を浮かべた。

「あの北野のこと? どうして私が北野なんかと……」

 ごまかすつもりだろうか、と尾崎は考えた。だが、もちろんここで追及の手を緩めるつもりはない。

「北野の顔写真が見つかった。これを見てみろ」

 尾崎は一枚の写真を差し出した。受け取って、広瀬は街灯の下へと移動する。

 彼女の手元が明るくなった。

「昨晩の男だな? 服装もよく似ている」

「でも、これは……」

 広瀬は首をかしげて、手元の写真をじっと見ている。しばらくそうしていたが、やがて眉をひそめた。わからない、と言いたげだった。

 尾崎は彼女に向かって話を続けた。

「君が昨夜会っていたのは北野康則だ。彼は菊池班長とも会っていた。明らかに不審な行動だ。彼は一連の殺人事件に関与していた可能性がある。だとしたら、彼と会っていた君はいったい何を画策していたのか、という話になる」

「ちょっと待って。画策だなんて、私はそんな……」

 普段冷静で落ち着きがある広瀬が、今、動揺しているのがわかった。まったく予想外の話を聞かされ、戸惑っているのだろう。

「もっと言えば、君が一連の事件に関与していたんじゃないか、という見方も出てくるだろう」

「あなたは私を疑っているの?」

 尾崎はゆっくりと首を横に振った。

「俺がどう思うかは関係ないんだ。君に疑いがかかってもおかしくないということを、俺は指摘している。そうなった以上、君には事情を説明する義務があると思う」

 眉をひそめ、険しい表情で彼女は尾崎を見ている。不本意だという気持ちが伝わってきた。自分のプライドを傷つけられたと感じているのかもしれない。

「曲がりなりにも、俺はこうして君とコンビを組んでいる。話してもらえないか」

 敵意はないと伝えたつもりだった。とにかく事情を聞かせてもらわなければ、この先のことは何も決められない。

 広瀬は軽くため息をついたあと、説明を始めた。

「私が一昨日、昨日と会っていたのは南原和男という情報屋よ。一年ほど前、私がある事件を捜査していたとき、情報を知っている人物として名前が挙がったの。私は彼に接触し、重要な話を聞くことができた。彼が情報屋として優秀だというのを知って、私は仕事を持ちかけた。それ以来、彼は何度も情報提供してくれたし、ときには組織への潜入もしてくれたわ。彼は暴力団や半グレ、海外マフィアに詳しかったし、それ以外の調査も引き受けてくれた。前に話したけれど、私が個人的に調べている豊村さんのことも、彼に一部調査してもらっていたのよ」

「君にとって、便利な人間だったんだな」

「ええ。……そして今日からは三好事件、赤羽事件についての情報収集を頼んでいた」

「例の特急料金の男か」

「そう。彼は毎回、精度の高い情報を持ってきてくれた。だから信頼していたんだけど……」

「しかしその男は北野康則という別の名前も持っていた。北野に南原、方角としては正反対だが、どちらが本名だったんだろうな」

 北に南だから非常にわかりやすい。一方が本名で他方は偽名なのではないか。いや、両方とも偽名だということも考えられる。

「彼が野見川組の関係者だとは聞いていなかったわ」

 広瀬は不快感を表しながら言った。なるほど、と尾崎はうなずく。

「偽名を使っているくらいだから、組との関係は隠していたんだろう。……想像になるが、おそらく奴は君について調べていたんだと思う。自然な形で知り合えるよう、チャンスを待ってから行動した。つまり、一年前の捜査で君が彼と出会ったのも、偶然ではなかった可能性がある」

「私は自分の考えで捜査を進めて、彼と知り合ったのよ」

「もし、そう思われるように登場したのなら、たいした奴だよ。君が聞き込みに行く相手を予想して、先に情報を与え、最終的に君が自分のところへ来るよう誘導したんじゃないだろうか」

「考えすぎじゃないの?」

 疑うような顔をして、広瀬は尾崎を見ている。自分のミスを認めたくないという気持ちは尾崎にもよくわかった。

「たしかに俺の想像でしかない。だが、その男はかなり頭の切れる人物だという気がする。奴はふたつの名前を使い分けて菊池班長と君に接近し、協力者になった。そうすることで、ふたりから捜査情報を得ることができた。何が目的かはわからないが、間違いなく計画的な行動だろう。ふたりの刑事が同時に手玉に取られていたとなれば、これは大変なことだ」

「私は、あの男に利用されていたってこと?」

 まだ信じられないという表情で、広瀬は考え込んでいる。これまでの行動には自信があっただろうから、かなりショックを受けているに違いない。

「認めたくないわね」広瀬は言った。「私が一般の人間に騙されていたなんて……」

「いや、一般の人間ではないと思う。これだけ大胆なことをした人物だ。北野としては野見川組の手伝いもしていた。もともと裏社会と関わりのある人間なんだろう」

「そういう人間に、私は目をつけられたと……」

「おそらくな。しかし、もう用済みだと判断されたわけだ」

 広瀬は黙り込んだ。街灯の明かりの下、彼女の顔は青白く見えた。それがまた、広瀬の美しさを際立たせている。

「南原を……北野を、私は放っておけない。こんなことをした報いを受けさせる。私はあの男を必ず見つけてみせます」

「個人的な恨みで、北野を捜すということか?」

「いえ、それは違う」広瀬は答えた。「目の前の捜査が最優先でしょう。でも北野は私と菊池班長から、同時に情報を得ていたと思われる。そうであれば、おそらく一連の事件と無関係ではないはずよ。どう?」

「ああ、可能性は高いと思っている」

「だったら話は簡単。私は事件の解決を目指します。その捜査の中で、北野も見つけてみせる。もしかしたら北野が犯人かもしれないんだから」

 たしかにな、と尾崎は思った。

 その北野という男が犯人かどうかはまだわからない。しかし一連の事件に関わっていることは充分考えられる。北野を捕らえれば、事件解決の糸口が見つかるのではないだろうか。

「君が使える手駒はなくなった。こうなった以上、君は俺としっかり協力するしかないんじゃないか?」

「私はもともとそのつもりだったけど」

「建て前じゃなく、本音の話だ。もう隠し事はするな。勝手な行動もとらないでくれ」

 広瀬は尾崎を正面から見つめた。もしかしたら、まだ何か不満があるのかもしれない。だが彼女は、疑問も意見も口にしなかった。

「わかりました」しばらくして広瀬は言った。「あなたの言うとおりにします。尾崎くん」

「そうしてくれ」と尾崎は答えた。

 大胆にも捜査員ふたりに接触していた北野康則。刑事たちから得たさまざまな情報を、奴はどこかに流していたのだろうか。それとも、自分の犯行計画を進めるために情報を役立てていたのか。

 尾崎は空を見上げた。雲がかなり出ていて、月も星もまったく見えない。

 この夜空の下、どこかの町に犯人はいるはずだ。今は手探りの状態でも、いずれ必ず奴にたどり着くことができる。そう信じて捜査を続けるしかなかった。
 
第四章 閉ざされた扉



 四月十八日、午前七時二十五分。

 コンビニのサンドイッチを食べたあと、尾崎は深川署の講堂に入っていった。

 捜査本部の席はもう七割ほど埋まっている。若い刑事たちは早くから自分の仕事を始めていた。彼らには焦りがあるのだろう。もちろん尾崎の心にも強い焦燥感がある。

 捜査本部設置から四日目。まだこれといった成果も挙げられない中で、三人もの被害者が出ていた。今回の事件の犯人は、超人的なバイタリティで犯行を重ねている。綿密な計画と、それを確実に遂行する行動力。かつて手がけてきた事件で、これほどスピードの速い犯行は見たことがない。

 犯人は警察の動きを意識しているはずだ。深川署に捜査本部が設置されていることは当然知っているだろう。多くの一般市民に紛れて、奴は尾崎たちを観察しているのかもしれない。

 自分の席に近づいていくと、すでに広瀬が出てきていた。

 彼女を見て、おや、と尾崎は思った。普段、冷静というか飄々というか、独特の雰囲気をまとっている彼女が、今日は真剣な目で資料を調べている。朝からトップスピードで仕事をしているように感じられた。

「おはよう。ずいぶん熱心だな」

 尾崎がそう声をかけると、広瀬は資料から顔を上げた。

「ああ、おはよう」彼女は眉間に皺を寄せて言った。「昨夜のことがあったから、気合いを入れなければと思って……」

「君の協力者だと思っていた南原が北野だとわかったから、ショックを受けたと……」

「そうね」

 尾崎は自分の席に腰掛けた。少し考えてから、広瀬にまた質問した。

「君は南原を――いや、北野と呼ばせてもらうが、彼をどう思っていたんだ? もちろん彼を信用していたんだろうが、いくつか仕事を頼む上で、気になったことはなかったのか」

「気になったこと?」

「たとえば、君に噓をついている気配はなかったか。何か不審な行動をとらなかったか。ときどき焦っているような態度をとったりしなかったか……」

 広瀬は首をかしげて記憶をたどる様子だ。しばらくして、彼女は答えた。

「いえ、特に……」

「北野が調べた情報が間違っていたことはなかったのか? ガセネタをつかまされたとか、そういうことだが」

「それはなかったのよ。丁寧によく調べてくれていた。だから騙されてしまった」

 大きく表情を変えることはなかったが、広瀬の顔には緊張の色がある。頰がぴくりと動いた。彼女が悔しがっていることは明らかだった。

 広瀬はしばらく捜査資料を見ていたが、やがて顔を上げた。

「そうだ。尾崎くんに話したいことがあるの」

「……何か見つかったのか?」

「見つかってはいないんだけど、ちょっと思いついたことがあってね。資料によると、第一の事件があった廃アパートでは犯行の一週間前、土地の測量が行われていたというの。アパートの敷地で何人かが作業をしていたそうよ。また、第三の事件現場の元大衆食堂は、犯行の十日後には解体工事の準備が始まる予定だったみたい」

「それは見落としていたな……」

「つまり、どちらも人の出入りがあるわけだから、犯人が下準備をする上でかなりのリスクがある。それでもあえてそこを選んだとすると、犯人は場所にこだわりを持っていた可能性があるわ。殺害方法にも意味があるだろうけど、もしかしたら場所にも意味があるんじゃないかしら」

「なかなか面白い発想だ」

 三つの事件現場について、もう少し調べてみるのはどうだろう、と尾崎は考えた。

 三好の廃アパート、赤羽の廃倉庫、大森の廃店舗。それらについて、あらためて情報を集めることにした。聞き込みは地取り班が丁寧に行っている。今、尾崎たちが調べるとしたら、事件分析の観点からだろう。

 尾崎は警察のデータベースで、殺人事件などの情報を検索してみた。過去、その三つの場所で何か事件が起こっていなかっただろうか。犯人はその事件に恨みがあって、今回猟奇的な犯行を繰り返しているのではないか。

 だが、しばらく調査を続けてみても、これといった情報は出てこなかった。

「勘違いだったのかしら」渋い表情で広瀬は言った。「やはり場所は無関係なのかな」

「何かありそうな気はするんだが……」

 尾崎は腕組みをしてから、低い声を出して唸った。

※ 次回は、5/17(金)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)