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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第25回




 応援のメンバーや救急車が到着するまで、少し時間がかかるようだ。

 加工室で坂本の様子を確認した。頭を殴られてかなり出血していたが、尾崎が介抱しているうち、彼は意識を取り戻した。

「坂本さん、私がわかりますか?」

「ああ……刑事さん。すみません、頭を殴られて……」

 尾崎はハンカチを取り出して、坂本の額や顔の血を拭った。言葉もはっきりしているし、調べてみて、ほかに外傷はないのでほっとした。坂本は左脚が悪かったはずだ。救急車がやってくるまで、そのまま畳んだ段ボールの上に座らせておくことにした。

 加工室から売り場に出る。

 北野は手足を縛られ、床に座り込んでいた。そばに立っていた広瀬が、尾崎のほうを向いた。

「南原──いえ、北野を協力者として信じてしまったのは私の失態だったわ」彼女は肩を落とした。「反省はあとでするとして、彼が私に近づいた経緯が知りたいの」

 わかった、と答えて尾崎は北野の前に立った。パトカーが来るまで、調べられることは調べておきたい。その考えは広瀬と同じだった。

「俺は深川署の尾崎だ。確認したいことがある。……おまえはいくつかの偽名を使っていたな。北野康則というのも偽名かもしれないが、ここでは北野と呼ぶことにする。おまえは二年前から野見川組の手伝いをしていた。裏社会で暴力団などの下働きをしていたわけだ。一方でおまえは警察にも近づいていた。一年前には深川署の菊池警部補に接近し、協力者となった。また、南原という名前を使って、当時赤羽署にいた広瀬の協力者にもなった。おまえはふたりから指示を受けて情報収集を行い、報告して謝礼を受け取っていた。だが目的は金ではなかったはずだ。あとあと自分で事件を起こして、そのとき警察の捜査情報を聞き出すつもりだった。そうだな?」

 言葉を切って、尾崎は相手の反応を窺った。北野はぼんやりと床を見ている。尾崎の問いかけには返事をしないつもりだろうか。

「おまえは、深川署管内や赤羽署管内で事件を起こす予定だったんだろう」尾崎は続けた。「だからふたりの刑事に接近した。この四月、広瀬が深川署に異動になったのは偶然だろうが、結果的にはおまえにとって好都合だった。深川署管内で事件が起これば、菊池さんや広瀬が捜査本部に参加する。そうなれば、自分が起こした事件を警察がどう捜査しているか、ふたりから聞き出すことができるわけだ。菊池さんも広瀬も、まさか自分の協力者がそこまで計算していたとは気がつかなかっただろう。おまえは頭の切れる男だと、俺も思うよ」

 少し持ち上げたつもりだったが、相手の心には響かなかったようだ。北野はいまだに視線をこちらへ向けようとはしない。それを見て、広瀬は渋い表情を浮かべていた。自分を騙した人物と相対しているのだ。いろいろ訊きたいことがあるに違いない。

 北野に喋らせるためにはどうすればいいかと、尾崎は思案した。まずは事件の経過を振り返るべきだろう。

「事件について整理したい。今回おまえは殺人を犯すだけでなく、遺体にいろいろな細工をした。あれは過去の事件と関係あるんだろう?」

 尾崎が尋ねると、一瞬だが北野の視線が動いた。初めての反応だ。この話は北野にとって重要なことなのではないか。

「北野、答えなさい」広瀬が厳しい口調で言った。「あなたは身柄を拘束されているのよ。今さら隠し事をしても仕方がないでしょう。私を騙していたことには目をつぶる。だから、事件のことをしっかり話しなさい」

 追及されたが、それでも北野は返事をしなかった。

「答えるのよ、北野!」

 広瀬が声を荒らげたが、これは逆効果にしかならないだろう。尾崎は彼女を制して、静かに北野に話しかけた。

「順番にみていこう。まず、第一の事件だ。郷田の弟分だった手島恭介がターゲットになった。もともとおまえは、手島のことを調べるために野見川組の手伝いを始めたんじゃないか? 組に出入りするうち、同じように下働きをしている手島と親しくなれたはずだ。四月十四日の夜、おまえは手島を江東区三好の廃アパートで襲い、用意しておいた穴に埋めた。だが、ただ生き埋めにしたわけではない。わざわざシュノーケルをくわえさせ、水を流し込んで溺死させた。あの現場を見て、我々はひどく驚かされたよ。なぜ時間をかけ、手間をかけて、残酷な殺し方をしなくてはいけなかったのか。これもまた、おそらくこだわりだったんだろう。だが、それにしてもあまりに猟奇的だし、不可解な事件現場だった。あれは何を意味していたんだ?」

 具体的に状況を説明したし、かなり絞り込んだ質問だったが、北野はやはり答えなかった。とはいえ、彼は反抗的な態度をとっているわけではない。尾崎はもう少し、この線で話を続けようと思った。

「次に第二の事件。おまえは赤羽の廃倉庫で白根健太郎さんを殺害したあと、両目を抉り、頭に黒いポリ袋をかぶせた。これもまた相当、猟奇的な犯行だ。かなり深い恨みがあったのだと推測できる。……ところで白根さんの部屋を調べたところ、《行方不明》というメモが見つかった。これは重要な手がかりなのかもしれない。おまえはさっき、息子を殺されたと言ったな。行方不明というのは、その息子さんのことじゃないのか?」

 いくつか考えていた質問のひとつだった。仮にこれが空振りだったとしたら、次の話に移るだけのことだ。

 だが今の問いかけによって、北野の表情は大きく変化した。彼は不快そうに眉をひそめ、身じろぎをしている。尾崎の質問が彼を刺激したことは明らかだった。

「もしかして、おまえの息子さんが行方不明になったことを、白根さんは知っていたのか? それが恨みの理由なのか? いや、しかしそれだけで殺害したとは考えにくい。もっと別の理由があったのだと俺は考えているんだ。そうじゃないのか、北野」

 北野は何か言おうとしたようだ。だが、まだためらいがあるのか、言葉を口に出そうとはしない。

 もう一息だ、と尾崎は思った。北野は黙秘を決め込んでいるわけではないだろう。きっかけさえあれば、言いたいことを口にするはずだ。

「続いて、第三の事件の話だ。おまえは菊池班長を大森の廃店舗へ呼び出し、殺害した。そのあと、また異様な現場状況を作り出した。土にソースとケチャップを混ぜ合わせたものを、菊池さんの口に押し込んだんだ。これを見たとき、俺は気味の悪さを感じた。見た目のインパクトでいえば、第一、第二の事件のほうが衝撃的だ。しかし土に調味料を混ぜること、それを被害者の口に押し込むことが、俺にとってはどうしようもなく不快だったし、不気味だった。……あれを死者への冒涜だと非難するのは簡単だ。だが俺は、おまえがあんなことをした理由が知りたい。おまえの中にあった思いを教えてもらえないか」

 尾崎は真剣な目で相手を見つめる。それに応えるように、北野は顔を上げた。

 この距離で、初めて尾崎と北野の目が合った。だが北野はまだ黙ったままでいる。

 チャンスを逃したくない、と尾崎は感じた。

「おまえが遺体にさまざまな細工をしたことには、意味が込められているはずだ。我々捜査員はそのメッセージを読み解かなくてはならない。おそらく、おまえの息子さんが殺害されたことと無関係ではないだろう。そこでヒントになるのは……そう、第三の事件だと思う。おまえが被害者にしたことは、意趣返しだったんじゃないか?」

 尾崎は喋りながら考え続ける。何かひとつでも手がかりをつかみたい。そのためには、北野を会話に引き込まなくてはならない。この話題が続いているうちに、なんとか端緒をつかむ必要がある。

「土と調味料……」頭を回転させながら尾崎はつぶやく。「この組み合わせは明らかに異様だ。調味料で味付けして何かを食べさせるのはいい。だがそれが土だったというのが問題なんだ。嫌がらせというか拷問というか、とにかく被害者を苦しめる行為だと言える。ものを食べさせるということは本来、慈しみをもって行われることなのに……」

 いや、待てよ、と尾崎は思った。

「そうだ。たとえば子供にものを食べさせるのは、慈しむということだろう。しかし被害者は土を食わされた。……これこそが復讐であり、意趣返しなのかもしれない。ひょっとして、過去の事件で、おまえの息子さんは飢えに苦しんだんじゃないのか? それを知っているから、おまえは被害者に土を食わせた……。あれは亡くなった息子さんへの手向けだったんだ」

 すう、と息を吸い込む音がした。床に座り込んでいる北野は、今はっきりと尾崎の目を見つめ返していた。

「正解ですよ、刑事さん」北野は言った。「あんた、尾崎さんといいましたっけ。土に目をつけたのはセンスがいい」

 北野の言葉を聞いて、尾崎は意外に思った。先ほどまであんなに暴力的だった男が、今はかなりおとなしくなっている。興奮がおさまり、反抗しても意味がないと察したのだろうか。そうであればこの先の質問がしやすくなる。

「息子さんが飢えに苦しんだとすると、第四の事件も読み解けそうだ。息子さんはどこかに閉じ込められていたんじゃないか? たとえば、誰もいない場所にある冷蔵庫だ。長時間閉じ込められていたから、息子さんは飲んだり食べたりできなかった……」

 そこまで話したとき尾崎は、あっ、と声を上げた。ひらめいたことがあった。

「……第三の事件で『食べ物』の意趣返しが行われた。それに対して第一の事件は『飲み物』だったんだ。息子さんは喉の渇きを感じていたし、空腹も感じていたんだろう。その息子さんへの手向けとして、おまえは被害者に無理やり水を飲ませ、土を食わせた。それが息子さんの供養になると思ったからだ」

 尾崎の思いつきでしかないことだった。しかし行方不明になった息子がどのような状態にあったかを考えると、次第に謎が解かれていくような気分になる。

 今の言葉に興味を感じたのだろう。北野は自分から尋ねてきた。

「二番目の現場については?」

 第二の事件では遺体の両目が抉られ、頭からポリ袋をかぶせられていた。あれが示すものは何なのだろう。

「視力を奪われたということか?」尾崎は考えながら言った。「まさか実際におまえの息子さんが、目を傷つけられたというのでは……」

「それはなかった」北野は首を左右に振る。

「じゃあ、目を抉ったのは猟奇的な演出か。ポリ袋をかぶせられたことで、被害者は何も見えなくなった。……そうか、真っ暗な場所だったということだな。第四の事件のように息子さんは冷蔵庫、またはそれに似た場所に閉じ込められていたんだろう。中は真っ暗だったというわけだ」

「そう。これで、あの子の置かれた状況がわかるでしょう」

「息子さんは行方不明になり、業務用冷蔵庫のような場所に閉じ込められた。真っ暗な中で恐怖に怯えた。喉の渇きと空腹に苦しめられた。……ということは、かなり長い時間、監禁されていたと考えられる」

「その結果どうなったか、想像してみてください」

 北野に問われて、尾崎は考え込んだ。おそらく答えはひとつしかない。だがそれを父親の前で口にするのは勇気のいることだった。

「餓死したんだな、息子さんは」

 黙ったまま、北野は二度、三度と首を縦に振った。自分自身を説得し、心を静めようとしているようにも見えた。

「息子さんの話、詳しく聞かせてくれないかしら」広瀬が言った。「辛い思い出かもしれないけれど、その辛さを私たちにも共有させてほしい。私はあなたを協力者として雇った。これは雇い主としての最後の命令よ」

「郷田のことは俺たちもかなり調べているんだ。おまえの話をわかってやれると思う」

 尾崎も、相手の目を覗き込んでそう促した。

 北野は長いため息をついたあと、話しだした。

「五年前の三月六日、私の息子・裕介が行方不明になりました。裕介は平井にある中学校の一年生でした。その日あの子は部活を終えて、学校から帰る途中で消えてしまった。私と妻の晶子は翌朝、警察に行方不明者届を出しました。小柄な子でしたから、何かの事件に巻き込まれた可能性があると思ったんです。警察は捜査をしてくれましたが、目撃証言は得られず、何カ月後かに捜査は縮小──いえ、実質的に終了してしまったようでした。世間は事件のことをすぐに忘れてしまいましたが、私と晶子は諦められませんでした。私たちは街頭でチラシ配りなどもしました。でも手がかりはつかめなかった。

 事件から二年半後、平井で風間冷機という会社の店舗の解体工事が行われました。その際、暗い地下フロアの、通電していない業務用冷蔵庫から裕介の遺体が発見されたんです。換気のため、角材をかませてドアに隙間は作ってありましたが、何重にも鎖がかけられていて、内側からは開けられない状態でした。その冷蔵庫の中で裕介は餓死していました。あの子は喉の渇きを感じ、腹をすかせていたはずです。真っ暗な場所で何も見えず、恐怖に震えていたでしょう。……そう思うと本当にショックでした。なぜ犯人はこんなむごいことをしたんだろうと思った。怒りを抑えることができませんでした」

 まったく想像もしていない話だった。

 その様子を想像すると、尾崎も深刻な気分になった。まだ十三歳の少年が、闇の中で何もできず、ただ死ぬのを待つだけだったとは。

「妻は毎日泣いていました。私は親の残してくれた資産で投資をしていたけれど、判断ミスばかりしていました。ある日このままではいけないと考えて、私は事件の調査を始めることにしたんです。……でも当時の私には、要領よく調べを進めることができませんでした。時間ばかり経ってしまって成果が出ない。かなり滅入りました。あのころは人生のどん底の時期だったと思います」

 記憶が甦ってきたらしく、北野は苦しげな表情を浮かべている。時間が経っても癒えない心の痛みが、今も彼を苦しめているのだろう。

「それでも調査を続けて、事件から三年後、今から二年前のことです
が、ようやくある事実がわかりました。……平井事件が発生した日の夜、錦糸町で別の傷害事件が起きていたんです。犯人は郷田裕治、被害者は坂本高之でした。私の家は平井で、錦糸町までは電車で二駅しか離れていません。たまたま同じ日に起こった事件かもしれませんが、気になって仕方ありませんでした」

「平井事件では学校帰りの息子さんが行方不明になった。それは三月六日の何時ごろだったんだ?」

「学校を出たのは午後六時ごろです。ひとりで帰ったようですが、下校途中の姿は誰も見ていなくて……」

 当時、警察は事件、事故の両面から捜査を行ったはずだ。誘拐事件を疑う者もいただろう。それでも足取りがつかめなかったということか。

 一方の錦糸町事件は、これまで何度も調べてきたとおり、三月六日の二十三時過ぎに発生している。坂本が左脚を刺され、逃走した郷田が交通事故で死亡したのだ。

 北野はこのふたつの事件の間に関連があるのではないか、と考えたらしい。

「もっと情報がほしかった。でも情報を集めるには、外部からの接触では限度があります。私は思いきって、闇社会に身を投じることにしました。そのことを話すと、あなたにはついていけないと言って妻は家を出ていきました。仕方ないですよね」

 北野は寂しげに笑った。どう応じていいかわからず、尾崎は黙って彼を見守る。

「私はあちこちに挨拶して回り、その結果、暴力団の下働きをさせてもらえるようになりました。学ぶことがたくさんありましたよ。闇社会のルールや薬物の取引、窃盗や強盗のテクニックなどを教わりました。真面目に、真剣に仕事をして、少しずつ大きな仕事を任せてもらえるようになった。自分からも積極的にヤバい仕事を引き受けて、暴力団員や半グレのメンバーから信頼を得ていきました。やがて私は傷害事件なども請け負うようになった。気がつけば、闇社会のかなり深いところまで入り込んでいました。

 私は平井事件の情報を集めていきました。そのうち、郷田には多額の借金があったこと、手島という弟分がいたことがわかりました。私は野見川組の下働きをして手島に近づき、親しくなって過去の出来事を聞き出しました。同じ闇社会の人間だったから、比較的簡単に信用してもらえたんです。何度もご馳走してやって、ついに私は平井事件の概要を聞くことができました。……ああ、北野というのは偽名ですからね。奴は私が裕介の父親だとは気づかなかったんです。

 平井事件の犯人はやはり郷田でした。手島は直接犯行を手伝うことはなかったけれど、情報面で協力していました。事前に平井に行って犯行に使えそうな建物を探し、郷田に報告していたんです。ほかにも三カ所の空き家や廃屋を見つけて撮影していました。最終的にどこを使うかは、郷田が判断することになっていたようです」

 ああ、そういうことか、と尾崎は納得した。

※ 次回は、5/31(金)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)